「先生、これからどうしたいですか?」
降ってきた声にスネイプは瞼を押し上げた。こめかみから前髪の生え際にかけて丹念に洗いながら、リサがひょいと顔を出す。最初こそ拒絶していたスネイプだったが、人に髪を洗われるというのは存外悪くないものであると気付いたのはつい最近の事である。
ナギニにやられた傷口は完全に塞がった。昨日の事だ。後遺症なのか、それとも一時的なものなのか、左腕はまだ満足に動かない。肘から上が動かないのだ。無理に動かそうとして激痛が走り、リサに叱られたのが昨日の夜の事である。
”薬を飲み続けていれば動くようになるはずですから”
スネイプにというより自分自身に言い聞かせているようなリサの声に、不安を覚えなかったと言えば嘘であるが、自分ではどうする事も出来ないのだ。与えられる薬も見る限りでは正確に調合されているようだし、これで治らなければ仕方ないと思うしかないのだろう。料理さえ出来ればそれで良いかとすら思ってしまう。
そんな事を考えているスネイプに降ってきたリサからの問いかけ。これからどうしたいか――問いかけを頭の中で反芻してスネイプはそっと溜息を落とした。
「考える時間はたっぷりあったが……何故だろうな、何も思い浮かばん」
元々死ぬつもりだったのだから当然といえば当然の事である。死んだ後の事など考える必要はないのだから。
シャワーの温度を確認したリサがシャンプーを洗い流し始める。微かに顔に飛んでくる水に目を閉じると、謝罪の言葉と共にタオルが顔に載せられた。
「予定を狂わせてしまってすみません」
リサがそう言ったのはシャンプーを洗い流し終え、軽く水気を切っている時だ。
「言葉にするのなら、ほんの少しくらいそれらしい声を作ってみたまえ」
出来ないのなら思ってもいない事を口にするな。続けたそれにリサが小さく笑う。離れた手に終わりを察して目を開ければ、まだですよと髪にまた何かを塗りつけられた。スネイプは呻き声を上げた。
「いらんと言っただろう」
「綺麗な髪なんですから、大事にしないと」
「余計なお世話だ」
「自分で洗えるようになったら、お好きにしてください。私は先生の黒髪が綺麗だと思ったので、トリートメントもしますし、コンディショナーもつけます」
漂うローズの香りにスネイプはまた呻いた。何が嬉しくて、いい年した中年男が頭からローズの香りを撒き散らさなければならないのか。スネイプの思考を読んだのか、リサが「いい匂いですよね」と笑う。言い返す気も起きなかった。
宣言通りトリートメントとコンディショナーを終えると、リサはスネイプの髪を結い上げて終わりを告げた。
「じゃあ、向こうに戻ってますね。一人で脱げますか?」
「あぁ」
出来なくても頼みたくはない。教え子に服を脱がされるなど地獄だ。リサが出て行くとスネイプは防水呪文で保護されていた服を脱ぎにかかった。
スネイプの口だけの抵抗も虚しく、烏の濡れ羽のような黒髪は日に日に手触りが良くなっていく。まるで「ほら! さらさら! 見て!」とばかりに、少し顔を俯かせただけでさらさらと顔の横に落ちてくるのだ。鬱陶しいことこの上ない。毎回掻き上げなければならないし、掻き上げてもすぐにまた落ちてくるのだ。手触りなどいらない。ごわごわな手触りのままで良い。邪魔にならない方が良いに決まっている。
「先生、じゃあこれ使ってみてください」
差し出されたのはグレーのヘアバンド。スネイプの視線が鋭くなった事は言うまでもないが、どうやらこの元教え子には効かないらしい。あの頃は少し視線を向けるだけで震え上がっていたというのに。過去を思い出して溜息を落としている間に、目の前にやって来たリサがスネイプの首にヘアバンドをかけている。あまりに自然だったものだから、スネイプは抵抗することも忘れてされるがままだ。
「これで邪魔じゃないですよ」
にこにこ笑うリサに頬を引き攣らせる。いっそ、本当に怖がらせてみようかなどと口を開きかけて気付く。軽く頭を振って、俯いて。悔しいことにリサの言う通りなのだ。邪魔ではなくなってしまった。これでは嫌味の一つも言えやしない。
「…………我輩は女になった覚えはない」
ぼそぼそと零した呟きにリサが楽しげに笑う。
不意にスネイプは気付いた。気付きたくはなかったが、気付いてしまった。
リサにとって、スネイプは子猫なのだ。
死にかけていた猫がいたから拾って世話をしている――リサにとってその程度の認識なのだろう。彼女の中で”魔法薬学教授”と現在世話を焼いている”死に損ない”は別人なのかもしれない。そんな事を考えてしまうほど、スネイプにとってリサは分からない存在だった。
「……それで」
「はい?」
「君は拾った子猫をどこまで世話したのかね?」
母の教えに従って飼っていたというのなら、いつまで。そしてスネイプの事はいつまで面倒を見るつもりなのか――けれどリサは何でもない事のように答えた。
「ホグワーツに連れてってましたよ。猫は連れてって良いって書いてあったので」
「…………そうか」
「でもハリー達との旅に連れて行くわけにはいかなかったので、両親に預けました。きっと今も元気に生きてると思います」
あぁ、くそ。大失敗だ。途中で放り出していてくれていれば良かったのに。
そんなスネイプの気持ちを知ってか知らずか、リサが笑って言う。
「大丈夫ですよ、途中で放り捨てたりしませんから」
あまりにもあっさり言うものだから、スネイプは面食らって言葉を失った。
無謀だとは思わないのだろうか。スネイプを助けて願いまで聞き入れて。大切な友人達まで欺いて。一体何がそんなにもリサを突き動かすのかスネイプには分からない。盗みまで働いて、魔法省から逃げ続けて――全てが明るみに出た時、自分がどうなるか分かっているのだろうか?
「ずっと気を張り詰めてたんですから、少しくらい立ち止まったって良いじゃないですか。のんびり空を眺めたり、長風呂をしたり――きっと、貴方にはそれが必要だと思うんです」
口を開けばスネイプを気遣う言葉ばかりではないか。少しくらい自分の立場を顧みれば良いのに。そうしてくれれば良いのに。
ぬるま湯に浸かっているような気になってしまうのだ。リサの言う通り、常に気を張って生きてきたスネイプには不安を覚えてしまうような危うい感覚だ。こんなものに慣れる前に消えなければと思うのに、未だ思い通りに動かない身体がもどかしい。
「あ、そうだ。さっき買い物行った時にプリン買ってきたんですよ」
いそいそと冷蔵庫へ向かうリサの背を見送り、スネイプは溜息を吐き出した。
戦いが終わったからだろうか。脅威が消え去り、自分が生きる目的も失って空っぽ状態になってしまったからこそ、この穏やかな日々に安らぎを覚えてしまうのだろうか。
「はい、どうぞ」
皿の上でぷるぷる揺れるプリンを見て、リサを見て。
差し出されたスプーンを受け取ったスネイプは、観念したように微笑んだ。