終わりは呆気なく訪れた。驚くほど呆気なかった。
名実ともに英雄となった親友に駆け寄っていく友人や仲間たち。誰もが傷だらけで、けれど疲れなど微塵も見当たらない。良かった、本当に良かったと泣き笑い、叫んでいる。
大広間はあっという間に騒々しくなった。戦いが終わった事を喜び、愛した者の死を嘆く。祝賀と哀悼の入り混じった宴はまだ始まったばかりだ。
リサ・桜井は玄関ホールに一人座っていた。ひんやりとした壁に背を預け、目を閉じて大広間から聞こえてくる音に耳を傾ける。身体は休息を求めていたが意識は驚くほどはっきりしていた。
「リサ」
呼びかける声に目を開ければ、目の前の空間がぐにゃりと歪んだ。皆に囲まれているはずの親友の顔が覗く。
「ハリー、どうしたの?」
「一緒に来て欲しいんだ」
ロンもハーマイオニーも一緒だよ。ハリーが続けると再び空間が歪み、透明マントの中からロンとハーマイオニーが顔を出した。宙に三人の顔が浮かんでいる光景は奇妙としか言いようがない。リサは笑いながら頷いた。
ホグワーツ城は酷い有様だった。階段はあちこち破壊されて動く事も出来ずにいたし、窓ガラスは大きく割れて風通しが良くなっている。四人は足元に注意しながらゆっくり歩いた。
「どこへ行くの?」
「校長室だ」
ハーマイオニーの問いにハリーが答えた。
「聞いて欲しいんだ。僕が憂いの篩で見た事、何が起きたのか、全部――」
校長室に着くまでの間、ハリーは静かに語った。
敵だと思っていたセブルス・スネイプから託された記憶の内容、自分がヴォルデモートの手によって死ななければならなかった事、スネイプがハリーの母を愛していた事、ダンブルドアと二人で全て画策していた事――リサ達は驚きと衝撃を口に出せないまま、ただハリーの話を聞いた。
ハリーが話を終えた頃には四人は校長室の前に来ていた。リサ、ロン、ハーマイオニーの三人は何も言えないまま、ハリーが校長室の入り口を護るガーゴイル像に話しかけるのを呆然と見つめた。
「上に行ってもいいですか?」
「ご自由に」
校長室に入ると壁に掛けられた肖像画の人物たちが大きな拍手で迎えてくれた。歴代の校長達だ。
一番新しい額縁の中にダンブルドアの姿を見つけたリサは、ハリーとダンブルドアが話しているのを眺めながら不意に気が付いた。
「あれ……?」
「リサ、どうしたの?」
呟きを拾ったハーマイオニーが囁いてくる。何でもないと首を振り、リサは歴代校長達の肖像画を順に眺めた。ホグワーツ城の主として学校を守ってきた歴代の校長先生達――けれど、何度見てもやはり”彼”の姿はなかった。
認められなかったのだろうか。校長として城に認められなかったから、ここにいないのかもしれない。今までのリサなら、それも当然だと思えただろう。だが、ハリーから聞いてしまった。”彼”がどんな想いで任務についていたのか――それなのに認められないなんて、悲しいではないか。
校長室を出た四人は顔を見合わせた。これからどうするのかとリサが問えば、ロンは大広間に戻ると言う。ハーマイオニーもそれに付き合うと言った。
「ハリーは?」
「僕はもう休みたいよ」
誰よりも疲れた顔をしたハリーが苦く笑う。グリフィンドール寮へ戻ると行って背を向けたハリーを見送り、リサ達は大広間へ戻っていった。
広間に入るとロンとハーマイオニーはすぐに家族達の元へ向かって歩き出した。寄り添って歩く二人の姿に微かに笑みを零し、リサもテーブルに向かおうと広間に入っていく――けれど歩みはすぐに止まった。校長室で見た肖像画の事を思い出したからだ。
気が付かなければ良かった。気付いてしまえば、もう知らないふりなど出来ないではないか。
ここにハリーがいたならばハリーを誘えたのに。兄の亡骸に会いに行ったロン達を呼び止めるなど出来るはずもない。溜息を一つ落として踵を返したリサは、人目を避けるようにして城を後にした。
セブルス・スネイプはこちら側に属していた魔法使いだった。ホグワーツで魔法薬学を教える傍ら、対ヴォルデモート組織”不死鳥の騎士団”の団員としても任務についていた。味方だった。性格に難がある男だったが、それでも味方だと思っていた。
スネイプがダンブルドアを殺めてあちら側へ行った時、誰もスネイプを信じなかった。スネイプが敵だったのだと、裏切り者だったのだと憎み恨んだ。それこそがスネイプとダンブルドアの狙いであったとも知らずに。
適任だったのだろう。元死喰い人という経歴を持つスネイプだったからこそ作戦が成功した。分かっている。理解はしている。けれど、あんまりではないか。ハリーの話を聞いてからリサはずっとそう思っていた。どうして思わずにいられるだろうか。蝙蝠のような奴だと嘲られ、罵られ、カビ臭い屋敷で孤独に横たわる彼こそ、誰よりも英雄と称えられるべきなのに。
暴れ柳の根元から隠し通路を通り、リサは叫びの屋敷へと向かった。血の臭いが充満している。あぁ、そうだ。彼はここで死んだのだ。もっと何かしてあげれば良かった。すぐに事切れたわけではなかったのだから、何かしら処置をするべきだった。あれでは見殺しにしてしまったようなものではないか――そんな事を悶々と考えながらリサは深呼吸をして最後の扉を開けた。
驚いた。スネイプが息を吹き返していた。
「…………せんせい……?」
そっと落とした囁き声は薄暗い部屋の中に静かに解けた。暗がりで横たわるスネイプの睫毛が震えて瞼が上がる。一歩、また一歩と近寄れば、視線をこちらに向けたスネイプと目が合った。あぁ、生きてる。死んでいない。
「良かった……すぐ病院へ――」
誰かを呼ばなければ。マダム・ポンフリーならすぐに処置してくれるだろう。病院へ運んで、完全に治療してもらうのだ。杖を喉元に当てて拡声呪文を唱えようとしたその時、突然スネイプが呻き声を上げた。起き上がろうとして失敗したのだ。
「動いちゃダメ!」
リサは慌ててスネイプに駆け寄った。真っ赤に染まった首筋が痛々しい。早く何とかしなければ。今度こそ呪文を唱えようとするとスネイプが微かに口を開いた。出てきた声は掠れていて聞き取れない。耳を寄せると嗄れた掠れ声が途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「、いけ……たすける、ひつようは、ない」
「そんな……!」
何を言っているのかとリサは驚いてスネイプを見た。そして、息を呑む。
こちらを見る真っ黒な目が、本心だと告げていたからだ。
「そんなこと出来ません!」
出来るはずがない。出来るはずがないではないか。スネイプこそ生きるべきなのに。
絶対に助けます。そう言ったリサにスネイプは顔を歪めた。痛みの所為かリサの発言の所為かは分からないが、きっと両方なのだろう。やがてまた口を開いたので、リサは再び耳を寄せた。誰かに言って来たのか、誰かに見られたのか――問いかけるスネイプにリサは否定した。誰にも言わなかったし、見られてもいないはずだ。
「たのみが、ある」
スネイプは言った。どうか、誰にも気付かれない場所へ。
息を呑んだリサにスネイプが続ける。もう魔法界にいる理由もない。どうしても死なせたくないと言うのであれば、どうか誰の目にも触れない場所へ連れて行って欲しい。
「先生……」
「めんどうだと言うのなら、このまま、去れ……どうせ、長くはない」
「そん、そんなの……!」
出来るはずがない。見殺しになど出来ない。したくない。けれど、スネイプの懇願を無視する事もリサには出来なかった。全てを知ってしまった今、スネイプの願いを無下にするなどどうして出来るだろうか。
「――分かりました」
深呼吸を一つ。リサは杖を握りしめてスネイプに向けた。
「貴方を連れて行きます。誰にも見つからない所へ――それで……助けます。必ず」
スネイプは何も言わなかった。
呼び寄せ呪文を唱えると埃被った戸棚から一枚のマントが飛び出してきた。古めかしいそれは、もしかしたらルーピンが学生時代に使っていたものかもしれない。マントに透明呪文をかけて羽織り、鏡で自分が隠れている事を確認する。
大丈夫、うまくいく。大丈夫。絶対に助けてみせる。
心臓の音が煩い。まさか自分がこんな事になるなんて思ってもみなかった。
スネイプにも透明呪文をかけ、浮遊の呪文を重ねる。リサは足音を立てないように気を付けながら屋敷を後にした。
まずはスネイプを何処か誰にも見つからない場所へ連れていかなければならない。手当てはそれからだ。早くしなければスネイプが死んでしまう。森の奥へ進み、拓けた所にスネイプを寝かせる。目印に木の棒を立てると、リサは大急ぎで城へ戻っていった。
宴会はまだ続いていた。戦いの最中にポンフリーが使っていた薬箱から、残っていた傷薬と造血薬、清潔なタオルと包帯をごっそり頂いてポケットに押し込んだ。
それだけでは足りない。リサは足音を立てないように気を付けながら地下牢へ続く階段を下りて行った。スラグホーンの研究室からいくつかの材料とポリジュース薬をくすねると、何も忘れてないことを確認して森へ戻った。
目印など必要なかった。スネイプが横たわる地面には赤が落ちていた。呪文を解除するとスネイプの身体がそこに現れる。顔面は蒼白で意識を失っていた。辛うじて上下する胸がスネイプが生きている事を教えてくれる。
「先生……先生……」
呼びかけるとスネイプの瞼がゆっくり押し上げられる。急がなければ。上半身を僅かに起こしてやるとスネイプが痛みに顔を歪める。
「ごめんなさい……頑張って、死なないで――」
造血薬を飲ませ、濡らしたタオルで傷周りを拭い傷薬を塗りこんでいく。スネイプが痛みに顔を歪めて呻くたびに自分が間違えてしまったのではないかと不安になっていく。怖い。本当にこれで合っているのだろうか?
癒者になりたいと思っていた。マダム・ポンフリーのような優秀な癒者になりたいと思っていた。医学書を読んで勉強をしていたし、たまに医務室でポンフリーに教わってもいた。けれどそれは簡単なものばかりで、こんな重傷患者の手当の仕方など教わっていない。
「お願いだから……」
患者が不安になるから、癒者は不安を表に出すべきではない――ポンフリーからそう言われていたのに、リサは不安を隠す事が出来なかった。怖い。怖くて堪らない。もし何か間違えていたら? もしスネイプが死んでしまったら?
「お願い……お願い、助かって……!」
泣きそうになりながら必死に処置を施していくリサを、スネイプの黒い目がぼんやりと見ていた。