06


私は今、迷っていた。

「うーーん……」

首を捻り眉間に深く皺を刻む私が立つのは、化粧品が陳列された棚の前。睨み付けるように見つめているのはファンデーションだ。
今朝、私達白ひげ海賊団は次の島――と言っても、もう何度も訪れた事のあるオヤジの縄張りの島だけれど――に上陸した。珍しく仕事が無かった一番隊は朝からずっと自由行動。隊長が仕事をするなら手伝おうと思って申し出たけど、隊長は苦い笑みを浮かべながら「たまにはゆっくりして来いよい」なんて残酷な言葉を寄越してくださった。

隊長の傍にいたい

そんな私の想いを見抜いているのだろう。
ここ数日を思い返せば自然と溜息が零れた。仕事を手伝うと部屋に行けば体よく追い出され、「サッチ隊長が食堂で呼んでます」と迎えに行けば「すぐに行くから先に行っててくれよい」なんて言われる始末だ。

避けられているという事に気付かないほど鈍感ではない。

元々、隊長に女として見て欲しくて始めた化粧。今、これを買い足す意味はあるのだろうか。

「………止めよう、かな……」

女の嗜みだとかエチケットだとか。そんなものを女海賊に求めて何になる。襲撃や訓練で汗を掻けば化粧を直さなきゃならない。嵐の中、必死にロープを張り続けていれば顔はびしょびしょに濡れるし、その顔を袖で拭えば服も顔も酷い事になってしまう。既に何度か経験済みだ。その時は諦めて袖と雨でもって全力で化粧を削ぎ落としていた。海賊が化粧なんて、良いこと無い。

ただ、隊長に見てもらいたいが為に始めた化粧。
けど、それはもう止めた方が良いのかもしれない。

終わりにしなきゃならないのかもしれない。きっと、隊長もそれを望んでいる。
私が化粧を止めて、隊長を想う事を止めて。ただの妹に戻れば――。

「ありがとうございましたー」

そう思うのに、どうして買ってしまったんだろう。
買ったばかりの新しいファンデをバッグにしまって溜息を一つ。私はバカだ。

それでも

好きなんだから仕方ないじゃないか

この言い訳は何処まで通用するだろうか。私がしている事は隊長を苦しめるだけじゃないのか。

消えないこの想いの行き場は何処にあるんだろう?




「悪ィな、今日は外で食ってくれ」

船に戻るなり出くわしたコック長にそう言われた。たまの上陸くらい外で飯を食って来いとオヤジに言われたらしい。オヤジや船番は船に残るものの、既に街の店から料理を運んでもらったらしく甲板には料理や酒が並べられていた。見張り台を見上げるが、その姿は無い。それで良いのか。そう思ったけれど、ここはオヤジのシマだし、少しすればまた見張り台に戻るだろうから問題無いだろうと自分に言い聞かせて部屋へと戻った。
街で買い揃えた新しい服や靴を部屋に置いて再び甲板に戻ると、船番である七番隊がラクヨウ隊長を筆頭に踊り歌っていた。見張り台を見上げると、やはり人は戻っているものの遠目からでも分かるくらいに真っ赤な顔をしていた。

「大丈夫かな……」

不安をぽつりと零して肩を竦める。何とかなるだろう。
甲板での騒ぎに混ぜてもらおうとも思ったけれど、今日の料理は島から運んだものだ。大食いではないけれど、私が混ざった事で料理が足りなくなるなんて事になるのは申し訳ない。仕方なく島に降りた私は、重い足を引きずって店にある酒場へと向かった。

島にいくつかある酒場。どうか、どうか会いませんように。他の酒場にいてくれますように。
そんな願いを込めて中に入ると、むわっと襲いかかる酒臭さと煙草の煙。楽しげな家族の笑い声にはそういう女の人達の笑い声も混ざっている。
何気なく店の中を見回して――この店に入った事を後悔した。

店の最奥、サッチ隊長やビスタ隊長と共に丸テーブルを囲むマルコ隊長の姿が見えた。それぞれの隊長の隣には色気と胸元と脚を惜しみなく曝け出してる綺麗な女の人達。

今すぐ店を出て行きたい衝動に駆られたけれど、近くにいた同じ隊のジュノに声をかけられてしまって逃げる事は叶わなかった。

「お、リサ! お前も飯か!?」
「、うん。一緒に食べて良い?」
「おう! 来い来い!」

快く招き入れてくれたジュノの隣に腰を下ろしてまた後悔。この席からマルコ隊長は丸見えだった。
見るな。見るな。見るな。
必死に自分に言い聞かせて料理と酒を注文すると、すぐに酒が運ばれてきた。

「「「カンパーイ!」」」

同じテーブルのクルー達と皆でジョッキをぶつけ合って酒を口に運ぶ。飲もう。気にならなくなるまで。酔い潰れたって構わない。隊長を見ずに済むのなら二日酔いくらいどうってことない。いや、やっぱり辛い。

他愛ない話で盛り上がるのは酔っ払いの特徴だ。私が来た時には既に半分出来上がっていたジュノ達は、私が運ばれてきた料理を食べ終わる頃にはグデングデンに酔っ払っていて、もう何を言っているのかも分からない。互いに訳の分からない事を言い合って伝わらない事が楽しいらしく大声で笑っている。けど、そんな馬鹿騒ぎは見てるだけでホッとする。

「リサ! お前もっと飲めって!!」

肩を組んできたジュノからジョッキを受け取ると、途端にかかる一気コール。「えー」と渋っていた私だったが、ふと視界の端にいたマルコ隊長がこちらを向いている事に気付いた。反射的にそちらを向くと、バチッと目が合う。マルコ隊長の隣にいる綺麗な女の人が隊長の肩にしなだれ掛かっていた。荒れを知らない細く綺麗な指が隊長の頬をするりと撫でたのを見た瞬間、何かが音を立てて崩れたような気がした。

「飲む」
「よっしゃあ!! いけえええぇぇ!!」

一気コールに合わせてジョッキを呷る。味なんて分からなかった。ただ隊長を見たくなくて、忘れたくて。何も考えたくなくて。煽られるままに何度も一気飲みを繰り返す私を、隊長はどんな風に思っているのだろうか。女の人に触れられたままなのは、私に諦めさせる為なんだろう。私に見せ付けるかのように、隊長が女の人の肩を抱いたのが揺れる視界の端に映り込んだ。

あぁ、痛い

苦しい

泣きたい

酔いというのは恐ろしいもので、泣きたいと思った瞬間に涙腺が緩むからタチが悪い。鼻がツンとしたのを感じて慌てて立ち上がると、ジュノが首を傾げて私を見上げた。

「ん? どうかしたか?」

呂律は回っていなかったけど、恐らくそう聞いたんだろう。

「何か、気持ち悪くなっちゃったから船に戻るね」

そう答えて酒場を飛び出した私は、けれど船とは反対の方向へ向かって歩いていた。

「はっ……はっ………」

歩いているだけのに息が切れる。揺れる視界が更にぼやけていく。頬が熱い。吐き出した息は震えていて、グッと唇を噛み締めて目を瞑ると頬に何かが伝った気がした。

何処に向かっているのかも分からず、それでもただ歩き続けると、店の建ち並ぶ通りから少し離れた広場に出た。昼間なら子ども達が遊んでいるんだろうけど、今の時間帯では誰もいなかった。中央にある噴水を取り囲むようにして並ぶベンチの一つに腰を下ろして髪を掻き毟る。

「、うー……」

食い縛った歯の隙間から漏れる音が私の心を更に揺さぶる。黙れば良いのに、それすらも出来ない。
髪を鷲掴む手に、ぽつりと水滴が落ちてきた。雨が降り出したようだ。早く船に戻らなきゃずぶ濡れになってしまう。

そう思うのに、身体は動かない。

目を瞑れば蘇るのは女の人に触れられる隊長。女の人の肩を抱く隊長。
きっと、あの酒場を出た二人は宿にでも向かうのだろう。隊長が帰って来るのは明日の朝かもしれない。

「っ、ふ……」

ぽつ、ぽつと落ちてくる雨が徐々に増えていく。ぽつぽつ、ぽつぽつぽつぽつ。少しずつ雨足が強くなっていくと同時に、地面に落ちた水滴が音を発するようになる。やがて、ザーザーと本降りになった雨は容赦なくベンチに座ったままの私を濡らしていった。体温が少しずつ奪われていく。服が濡れて冷たい。乱れた髪の毛もぐっしょり濡れていた。それでもその場から動くことは出来なかった。

「う、うぅ……」

こんなにも強い雨の中ならば。

「うー……うーー………」

少しくらい、構わないだろうか。

「、ぅう、っ、」

唇が震える。ガチガチと歯が小刻みに音を鳴らすのは寒さの所為なんかじゃない。
噛み締める事が出来なくなった口から、音が溢れた。

「、うあああぁぁぁ……」

小さな声はザーザーという雨に掻き消された。

「ああぁぁぁっ……!うああああぁぁぁぁ……!!」

涙と雨が混ざり合って頬を濡らす。自分の声すら聞き取れない。雨の落としか聞こえない。何も聞こえない。
雨が涙を流して消し去ってくれる事を願い顔を上げた。子どもみたいにみっともない泣き方。こんなの、嫌われて当然だ。妹にしか見てもらえなくて当然だ。

バッグから今日買ったばかりのファンデーションを取り出して地面に叩き付けると、それはいとも簡単に壊れた。雨が粉々になったファンデを流していく。地面に残る僅かな固形物はまるで今の私の心のようで、見てられなくて思い切り踏み潰した。押し潰されたファンデが流れていくのを眺めながら、私はまた泣いた。

私の心も押し潰れて消えてしまえば良いのに。

雨は私が泣き止むまでずっと降り続けてくれた。まるで、私の為だけに降ってくれたようだった。
このままここに居続ければ間違いなく風邪を引くだろう。びしょ濡れで顔もグチャグチャで、船に戻ったら皆は何て言うだろうか。オヤジは、何て思うだろうか。

迷った挙句、私は街の宿へ向かう事にした。どうか、隊長のいる宿でありませんように。
人気の無い路地を通って一番近くにあった宿に入ろうとすると、丁度中から出て来た誰かとぶつかった。

「、」
「………」

互いに相手を認識した瞬間にその場に立ち尽くす。
ぶつかった相手は紛れもなくマルコ隊長で、私の顔を見たからだろう、眉を寄せて顔を逸らした。

「………ごめんなさい、服……濡らしちゃって、」

嗄れた声でそう呟けば「いや……」なんて小さな声が返ってくる。目の前が揺れる。気持ち悪い。
神様は残酷だ。よりによって、こんな時に隊長と出くわすなんて。
宿から出て来た意味が分からないはずがない。だって、さっき考えてた事だから。

「おやすみ、なさい」

小さな小さな声で呟いて隊長の脇を通り抜ける。ずぶ濡れの私を見て受付けの人は少しだけ嫌そうな顔をしたけど、部屋のキーを渡してくれた。隊長を振り返ることなく早足で宛てがわれた部屋へと向かう。

「、は、はは……」

もう笑いしか出てこない。

「ばかじゃん、わたし……」

バカだ。大バカだ。

濡れた服を脱ぎ捨ててベッドに潜り込む。お風呂に入ろうか迷ったけど、止めた。
眠りたい。今すぐに。全部消し去ってしまいたい。
そのまま、永遠に目を覚まさなければ良いのに。





こんにちは何度目かの世界





乾かす事をしなかった服は湿っていて、けど私の顔も酷い事になっていたから丁度良かった。
乾かす間にお風呂に入って、食事を頼んで。顔は化粧で誤魔化そうと思ったけど、そう言えばファンデを捨ててしまったんだった。あぁ、もういいや。どうでも。

お風呂を出てまた少しだけ眠って。船に戻ったのは太陽がオレンジ色に染まり始めた頃だった。
結局、服は乾き切らなかった。半乾き状態はとんでもなく気持ち悪い。けど、それすらも何故か笑えた。

「お、何だよリサ。遅かったじゃねェか」
「ただいま、ジュノ。二日酔いは大丈夫?」
「無理……ホント無理……お前平気なのか?」

顰め面で自分のこめかみをグリグリと押すジュノに小さく笑みを零す。どうやら、私はジュノよりは酒に強いらしい。

「つーかよ、お前昨日帰って来なかったのか? それ昨日と同じ服だろ」
「雨降って来たから宿に泊まったの」
「へぇ、お前が男を買う日が来るとはねェ……」

そんなんじゃない。そう言うつもりだった。
けど、少し離れた所に隊長の背中が見えて。途端に胸の奥がスッと冷えて。

「………たまにはね」

もう終わりにしよう。
全部全部、終わりにしよう。

ジュノの揶揄を躱して部屋に戻った私は、マルコ隊長が拳を握り締めてその場に立ち尽くしていた事なんて気付くはずもなかった。