あの日、マルコさんと婚約してから一年が経った。
因みに結婚してから三ヶ月でもある。そう、結婚したのだ。マルコさんと。怒涛の一年だった。
善は急げとばかりにお互いの両親に挨拶に行って、私の父親が猛反対するという面倒な出来事も終わって。式場をどうしようか、ドレスはどんなのにしようか――そんな事を話し合い始めた頃にはもう既に、サッチさんやエリザさん達によって全て手配が終えられていた。ドレスだけは私の意見も取り入れようと思ってくれていたらしく(というかマルコさんがそう主張したらしい。全部知ってたのかあの人)、マルコさんと二人でカタログを眺めながらこのドレス可愛い、こっちのが似合うんじゃねぇか? なんて幸せなやり取りをして。
そして、結婚した。
マルコさんのマンションで一緒に住むようになって、意識して敬語を使わないようになって。たまにマルコなんて呼ぶようになって。幸せな毎日を送っていた私は、今日。会社を辞めてきた。ついさっき仕事を終えて帰って来たマルコさんにそれを告げたところだ。当然ながらマルコさんはぽかんとしている。
「え、え? 辞めちまったのか?」
何か嫌なことでもあったのか?
イジメか? パワハラか? ――セクハラか!!
上司ぶっ殺すなんて物騒な呟きを漏らすマルコさん、全部違います。そして上司はとてもいい人でした。
スーツから部屋着に着替えてきたマルコさんをソファに座らせて、その隣に腰を下ろす。あぁ、ちょっと緊張する。
「あの、ですね」
「、あぁ」
私の真剣な表情に、これはただ事ではないと悟ったのだろう。マルコさんも真剣な顔でこっちを見つめている。
あぁ、どうしよう。本当に緊張してきた。やばい、手汗が酷い。心臓が煩い。落ち着け、落ち着け。深呼吸を繰り返している内に何を思ったかマルコさんが叫ぶ。
「お、俺は別れるのは反対だ!」
「違います、大好きです」
「そ、そうか……」
ホッとするマルコさんにくすりと笑い、もう一回深呼吸。
「あの、ですね」
「あぁ」
「実は、その……ずっと内緒にしてたんだけど」
どきどき。どきどき。心臓が煩い。手汗、本当にやばい。
でも言わなきゃ。言え。大丈夫だ。
「――、あ、かちゃんが、」
できました。
一拍の間。
「……は、」
思わず声を漏らしたマルコさんがまた黙りこんで、また一拍。
「………え?」
混乱しているのだろう。視線を泳がせて必死に何かを考え込んでいる。一拍、二拍、三拍。
「………!!!?」
驚愕に目を見開いたマルコさんの顔は、多分一生忘れない。
「あ、かちゃ……」
「こないなーって思ってたの。でもマルコさんが前に言ってたから違うだろうなって思ってて……ほら、忙しかったでしょ? だからその所為で遅れてるんだろうなって思ってて」
それでもこなくて。一ヶ月、二ヶ月とこなくて。
体調を崩したわけでもないし、今までにこんなに長い間こなかったことはなかった。だから、もしかして――なんて思ったりして。
「でも、その……違ったらマルコさんをガッカリさせちゃうんじゃないかと思って」
やっぱり出来ねぇんだと肩を落とすマルコさんが想像出来て。それに必死に謝る自分の姿も想像出来て。
咄嗟に浮かんだのはやはりと言うかお母さんの顔で、結婚する時に事情を説明してたからか「マルコ先生に言わなくていいの?」とは言わずに一緒に病院に行ってくれた。そこで言われた「おめでとうございます」の言葉に二人して目を丸くして。
安定期に入るまでは無理をしてはいけませんよと言われて、会社を辞めることを決意した。産休をもらうことを考えなかったわけではない。いっぱい考えて、考えて、母親業に専念することを決めた。
「………俺、の……?」
聞きようによってはとんでもなく失礼なことを呟くマルコさん。たぶんそんなつもりは全く無いだろうから聞き流すことにする。
俺と、リサの。呟いたマルコさんの手が伸びてきてそっとお腹に触れた。躊躇いがちに伸びてきた手は震えていて、まだぺったんこのお腹に触れるとじんわりとマルコさんの手の熱が伝わってきた。その手に自分の手を重ねて、笑う。
「まだ三ヶ月なんだよ。お腹が大きくなり始めるのは安定期に入る五ヶ月頃だって言ってた」
「………」
「楽しみですね、パパ」
「パ……ッ、」
一瞬で顔を真赤にしたマルコさんが顔を背けて手のひらで顔を覆う。耳が真っ赤なのが見えてるからバレバレで。でもそこが可愛い。私の旦那様、凄く可愛い。いつもはかっこいいのに、たまにこうして可愛い姿を見せてくれるから堪らない。計算だったら怖い。
「う、うんで、くれんのか」
「産んで欲しくない?」
「まさか!!」
叫んでマルコさんが抱きしめてくれる。痛いほどに強く、けれどお腹を圧迫しないように。震えてる。マルコさんの身体が、声が。はぁ、と吐き出した声は湿っぽかった。
「、りがとう……」
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
何度も何度もそう呟くマルコさんの背中にそっと腕を回して、ふふふと笑う。
「大変だよ、これから」
明日にでもオヤジさんたちに報告しないと。それでまた、今度は妊娠おめでとうパーティとかそんな感じの宴が開かれるんだ。
お酒を飲むつもりはないけど、あれだけ酒飲みが揃ってると匂いだけで酔っちゃいそうでこわい。私参加して大丈夫だろうか。
「あぁ……」
あぁ、そうだな。何度も何度も頷くマルコさんはとても嬉しそうだ。私だって嬉しい。だって、無理だと思ってたから。
マルコさんと結婚して、子どもが生まれる夢――あの日、プロポーズされた日に諦めたはずの夢が、すぐそこにある。嬉しくないわけがない。
「う、生まれるまでに色々と用意しとかねぇと……!」
「ふふっ、そうだね」
「あっ、その前に引っ越さねぇと……!」
「――、は?」
今何といったこの人は。ぽかんとする私の隣で、マルコさんはブツブツと独り言。
広い庭が必要だとか、ブランコや滑り台の遊具も必要だとか、子ども部屋も必要だとか。勉強机も必要だな、と言い出した辺りでストップをかけた私は間違ってないはずだ。
「と、取り敢えずはまだここで良いんじゃないかな。安定期に入るまで無理するなって言われてるし……」
「………分かった」
渋々頷いたマルコさんにホッと胸を撫で下ろす。喜んでくれるのは嬉しいけど、ちゃんと考えてから動くべきだ――私がお腹にいるって分かった時、調子に乗って色々買いまくって後悔したらしいお母さんもそう言ってた。
「まずは物件探さねぇとだしな。明日ちょっと見てくるよい」
「………ほ、ほどほどに、ね」
あ、駄目だ。これ何言っても無駄だ。
意気込むマルコさんからそっと視線を外して頬を掻く。お母さんごめん、多分私たちも同じような道を辿ると思う。
マルコさんの手が伸びてきて、またお腹に触れた。
「早く生まれてきてくれよい」
で、でも早すぎても駄目だ!
ちゃんと腹ん中でいっぱい育って、そんで元気に生まれてきてくれ。
まだぺったんこのお腹を優しく撫でながら、マルコさんが赤ちゃんに語りかけている。
何だかくすぐったくて、嬉しくて、幸せで。
これからきっと、私達には想像もつかないくらい大変なことが待っているのだろう。
生まれるまでも大変だろうし、生まれてからはもっと大変になるはずだ。分からないことだらけで少しだけ不安だけど、でも。
「マルコ」
「ん?」
お腹にばかり構ってるマルコさんに呼びかければ、顔を上げたマルコさんは何かを察したらしく、あやすように頬にキスをしてくれる。私、そんなに不満そうな顔をしてたんだろうか。伸びてきた両手が頬を包み込んで、今度は唇に。啄むように何度も何度も繰り返されるキスに頬が緩んでいく。単純だ、私。
「リサ」
「なぁに?」
すぐ目の前にあるマルコさんの目をじっと見つめて、今度は私から。同じように何度も何度もキスをする。
内側からじわり、じわりとこみ上げてくる感情に鼻の奥がツンとしてくる。あぁ、もう。何だこれ。
マルコさんと出会って、恋をして、結ばれて。
良いことばかりじゃなかった。不安や寂しさで押し潰されそうになった時だってある。逃げ出したくなった時もあった。
それでも、やっぱり好きで。どうしようもなく、好きで。
「何考えてんだい?」
「今までのこと」
楽しいだけじゃなかった。嬉しいだけじゃなかった。
良いことも悪いこともあって、でも、全部ひっくるめて考えてみてもやっぱり幸せだった。
「あと、これからのことも」
きっと、これから先もずっとそうなんだろう。
泣いて、笑って、喧嘩して、仲直りして。
これから先も、ずっと
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人して頭を下げて、顔を見合わせて。吹き出して。
私の肩を抱き寄せたマルコさんのもう片方の手が、お腹に触れる私の手を覆うように重なる。まるで護られてるみたいでこそばゆい。
マルコさんに身体を預けて目を閉じると、背中からマルコさんの体温と鼓動が伝わってくる。
「幸せですねぇ」
「幸せだなぁ」
図らずも同時に呟いたそれに、きょとんとした顔を見合わせて。笑って。
それからまた、幸せいっぱいのキスをした。