「幸せですか?」と問われたら、間違いなく「幸せです」と即答出来る。
幸せなのだ。幸せで、すごく幸せで――だからこそ、不安は消えてはくれない。
「そっか……聞いてねぇんだ」
独り言のように小さく呟きながら、サッチさんはまるで小さい子どもを宥めるような目で私を見つめている。聞いてない――そう、聞いてないのだ。私は何も聞いていないし、聞かされてもいない。
「マルコはさ、多分……自分が結婚しちゃいけねぇと思ってるんだよ」
呆れと、哀れみと、ほんの少しばかりの悲しみの色を混ぜたような顔でサッチさんはくしゃりと笑った。
私の恋人は、弟のERRORが通っていた幼稚園の先生だった人だ。出会ってから一ヶ月ほどで付き合い始めた私たちだけど、上手くやってきたと思う。先生をマルコさんと呼べるようになるまで多少時間がかかったし、慣れてきてからも咄嗟に出てくるのはやっぱり「先生」で、完全にそれが抜けたのはERRORが幼稚園を卒園してマルコさんを「先生」と呼ぶ機会がなくなってからだ。
お付き合いを始めてから五年。
幼稚園の年少だったERRORはもう小学生になってるし、私だって一応社会人として働いている。
私とマルコさんの交際は最初っからお互いの両親公認だし――お父さんはずっといじけてたけど――、私を気に入ってくれているらしいエリザさんとは二、三ヶ月に一回くらいのペースで買い物やお茶に行っている。
まだ二十代前半だけど、そろそろ結婚とかそういうことを視野に入れ始めてもおかしくない、と、思う。マルコさんは私より十以上も年上だし、好きな人と結婚して子どもを産んで温かな家庭を――っていうのは、女なら誰でも一度は夢見ることなんじゃないかと思う。
それでも、マルコさんからは何のアプローチもない。
数年前に出来ちゃった結婚した友達の話をした時は「若ェなぁ」なんて笑ってたし、会社で同期の子が結婚した時は「あぁ、話してた子かい。そりゃめでてぇなぁ」なんて笑っていた。そう、笑っていた。だけ。
「じゃあ俺たちも結婚するか」なんて言葉をほんの少しくらい期待していた私の視線に気付いていたのかいないのか、マルコさんは「お、風呂が沸いた」なんて言ってさっさと浴室へ消えてしまった。
結婚の話題を避けてるんだと察するのに時間はかからなかった。だから自然と私も結婚の話題を口にしなくなったし、それでも家に帰ればお母さんから「あんたらまだ結婚しないの?」なんて聞かれるし、小学生になったERRORからは「リサちゃん、ケンカしたの?」なんて心配される始末だ。
何か気に障ることをしたのだろうか。五年も付き合っていれば互いの悪いところだって見えてくる。結婚を決める上で、最低限必要なライン――マルコさんの中で、私はそのラインを下回ってしまったのかもしれない。何がいけなかったのだろうと考え始めてしまえば、それは留まるところを知らず私を追い詰めた。
怖くて、不安で、けれどそれをマルコさん本人に確認するのが怖くて。
マルコさんと訪れたサッチさんのレストランで、マルコさんが席を立った時にこっそりサッチさんにお願いした。いつでも良いから、空いている日に会ってくれ、と。
マルコさんに内緒で、とお願いした私にサッチさんは目を丸くし、困ったように笑いながら「それはちょっと」なんて言っていたけど、私の顔をじっと見つめて何かを感じたのか――多分、思いつめた表情をしていたんだろう――、最終的には了承してくれた。
それから数日経った今日、レストランの定休日にサッチさんと会う約束をした私は、仕事後にデートに誘ってくれたマルコさんを断ってサッチさんの待つ喫茶店にやって来ている。ここのケーキが美味いと評判なんだと茶目っ気たっぷりに教えてくれたサッチさんの言葉通り、店にはカップルや女性客がたくさんいた。話し声で賑わう店は私の気持ちと正反対の浮かれ具合だったけど、だからこそ話が他に聞こえることはないんだと教えてくれたサッチさんの心遣いにありがたい気持ちでいっぱいになった。
こんな相談を持ちかけるのは悪いことかもしれない。けど、不安で、怖くて仕方ない私は藁にも縋る思いでサッチさんに尋ねた。マルコさんが、私について何か言ってなかったか、と。
驚くサッチさんに、親から結婚しないのかと聞かれてることや、自分はマルコさんとずっと一緒にいたいと思ってることを告白すると、いつもの笑顔を引っ込めて真剣に話を聞いてくれていたサッチさんは悲しげに呟いた。「そっか、聞いてねぇのか」と。そして告げられたのが、さっきのアレだ。
「結婚……しちゃ、いけない?」
何で、どうして。そんな疑問が顔に出ていたのだろう。サッチさんは張り詰めたこの空気を和ませるかのようにふと笑みを零し、コーヒーのカップに砂糖とミルクを混ぜた。その間何も言わないサッチさんを焦れったい気持ちで見つめていると、こくりと一口飲んだサッチさんが漸く口を開く。
「アイツが何で保育士になったか、聞いてる?」
「え? いえ……」
そう言えば、前に尋ねたことがある。けど、その時マルコさんは「似合わねぇかい?」なんて笑うだけで話はすぐに他のことに移ってしまった。その時は別にそこまで気にしなかったけど、もしかしてあれは意図的に逸らされたのだろうか。
今の今まで気にも止めていなかった。もしかしたら、あの時ちゃんと聞いておかないといけなかったのだろうか。血の気が引いていくのが分かった。
そんな私の様子に気付いているだろうに、サッチさんは「やっぱり」なんて笑う。
「聞いてねぇと思ったんだ。アイツ、リサちゃんの前ではカッコつけたがるから」
惚れた女に情けない姿見せたくねぇんだろうな、なんてサッチさんが笑う。
「サッチさん……」
「あとは……きっと、リサちゃんと別れたくなかったんだよ」
「え……?」
「アイツ、自分が保育士になった理由話したら、別れなきゃならねぇと思ってるだろうから」
「な、何で!?」
到底聞き逃すことの出来ないそれに思わず声を荒げれば、サッチさんはその笑みに少しだけ苦さを混ぜた。
そして、サッチさんは教えてくれた。私が聞きたかったことを、全て――。
「……リサ?」
玄関のドアを開けたマルコさんが不思議そうに私を見下ろしている。
当然だ。今日のデートを断ったのは私の方だし、これから行くと連絡も入れずに家にやって来たのだから。
「今日は用事があったんじゃねぇのか?」
首を傾げながらも家に招き入れてくれたマルコさんは、ドアが閉まった玄関で靴を脱がないまま俯く私に戸惑いながらまた私の名前を呼ぶ。
どうした? 何かあったのか? なんて問いかけるマルコさんの声は優しくて、覗き込んできた顔は心底私を心配しているという表情で。
「っ、」
「……リサ………?」
涙が溢れた。
「、マルコ、さん」
「……ん?」
戸惑いながらも返事をしてくれたマルコさんの声はやっぱり優しい。
好きでいてくれてることは分かってる。マルコさんはいつだって私を大事にしてくれていて、たまにだけどちゃんと言葉にしてくれるから。それを疑ったことはない。
けど、それでも。
「――別れて、ください」
「、」
マルコさんがひゅっと息を呑んだのが聞こえる。
シンと静まり返った玄関が、どんどん嫌な空気になっていくのが分かった。
「………理由、聞いても良いかい?」
「……サッチさんから、聞いた、の」
マルコさんが保育士になった理由を。そう続けると、また息を呑んだマルコさんが「そうかい」と呟く。別れたいと言った理由を察したのだろう。マルコさんの声には諦めの色が濃く滲んでいた。
「……………ごめんな」
謝る理由も、全部私は知っている。
マルコさんが今、何を考えているのかも知っている。
そっと顔を上げると、全部諦めたような目で私を見つめるマルコさんの顔があった。
それが悲しくて。悔しくて。
「、ルコ、さ」
「家まで、送るよい」
ちょっと待っててくれ。そう言って背を向けたマルコさんの背中がどんどん遠くなっていく。
それがまるで、マルコさんの心が私から離れていっているようで。悲しくて、苦しくて、辛くて。
「行こう」
車の鍵を持って戻ってきたマルコさんの硬い声に、私は耐え切れなくなって声を荒らげてしまった。
「っ、マルコさんの、バカ……!」
「、」
「なん、なんでっ、何でそうやって勝手に諦めちゃうの!?」
私たちの五年間は、こんなにあっさり消えてしまうものなんだろうか。
出会って、恋をして、すれ違って、結ばれて。
付き合ってからだって色んなことがあった。喧嘩らしい喧嘩はなかったけど、十以上も歳が離れているということで私たちがすれ違うことだってあった。
それでも、好きだから一緒にいたのに。
大好きだから、これからもずっと一緒にいたいと思っていたのに。
「……俺は、」
声を荒げる私に対して、マルコさんの声は凄く静かで、悲しげで、細い。
ぐっと握り締めた拳が、微かに震えた身体が、俯いた顔が、何もかもが悲しくて。
「リサの夢を、叶えてやれねぇ……っ」
食いしばった歯の隙間から絞り出すように吐き出した声は、殆ど聞き取ることが出来なかった。
”アイツ、子どもが出来にくいって言われてんだ”
サッチさんの声が甦る。
二十代前半の頃にかかったおたふく風邪が原因で精巣炎というものになってしまったマルコさんは、無精子症にまでは至らなかったものの、子どもが出来る確率がグンと下がってしまったのだという。
愛しい息子たちの子はさぞ可愛かろう。沢山の息子たちと孫たちに囲まれるその光景を思い浮かべては「まだ結婚しねぇのか」なんて本気なのか冗談なのか分からない言葉を口にしていたオヤジさんに、マルコさんは言っていた。「もう少し待ってくれ」と。いつか必ず抱かせてやるから、その時を楽しみに生きててくれ、と。
楽しみだと笑うオヤジさんの夢は、マルコさんの夢だったのだ。
けれど、その夢が叶う可能性は殆どゼロに近い。当時は相手こそ見つかっていなかったが、それでもいつかは――そう考えていたマルコさんにとって、自分がオヤジさんにしてあげられる唯一の恩返しが出来ないということは死刑宣告にも近い。当時は酷く落ち込んでいたのだとサッチさんは言った。
落ち込んで、落ち込んで、悩んで、苦しんで。
そして、マルコさんは一つの答えを出した。
それならばせめて、家族の役に立ちたい、と。
自分が子どもを持つことが出来ないとしても、いつか他の兄弟がオヤジさんの夢を叶えてくれる日がくるだろうから、と。マルコさんの夢でもあるそれを代わりに叶えてくれるその兄弟の役に立てるように、小さな孫を前にオヤジさんが困らないように、いつだって、自分が彼らの役に立てるように。
せめて、それだけは――そう願ったマルコさんは、いつか来るその日の為に保育士として働いている。沢山の子どもたちと過ごしている。幼稚園や保育園で培ったそれを発揮出来る日を夢見ている。
”何とかしてマルコの夢を叶えてやりたくてさ。俺も頑張って相手探してんだけど、もー玉砕ばっかで”
マルコさんの夢を叶えてやりたくて。
オヤジさんに孫を抱かせてあげたくて。
サッチさんは「この人だ!」と思った相手を片っ端から口説いているという。未だ成就せず、まだ見ぬ『その日』を夢見ているだけの状態なのだけれど。
”でも、マルコはリサちゃんに出会った。アイツがリサちゃんに惚れてんの、分かってるだろ? もーベタ惚れでよ、俺ら集まるたびにマルコの話題で盛り上がってるわけよ”
血の繋がらない彼らは、どこまでも家族で。
どこまでも、家族想いで。
”アイツは怖がってんだ。リサちゃんの夢を叶えてやれないことがさ”
好きで、好きで、どうしようもなく好きで。
そんな相手の夢を叶えてあげられない。子どものいる幸せな家庭を作ってやれない。
私が小さい頃から漠然と抱いていた夢は、私の知らない所でマルコさんを追い詰めていた。苦しめていた。
夢だった。
好きな人が出来て、恋をして、結婚して、子どもが出来て、幸せな家庭を作りたかった。
「っ、ら、ない……」
「………」
「こども、ほしく、ない……!」
泣きじゃくる私にマルコさんは何も言わない。
マルコさんの顔が見えない。目の前が滲んで、何度擦っても滲んで、滲んで、見えなくて。
「マルコさんしか、いらな……っ」
夢だった。
マルコさんと結婚して、マルコさんとの子どもが出来て――そんな夢を見ていた。
でも、違う。その夢はマルコさんがいなきゃ意味がない。
昔はただ『好きな人』と思っていたけど、今の私にとってその人はマルコさんだ。マルコさんじゃなきゃダメだ。
マルコさんとの子どもが出来ないというのなら、子どもなんていらない。マルコさんがいてこその夢だ。マルコさん以外の人との子どもなんて欲しくない。結婚だってしたくない。
「……ゆって、はやく」
「リサ……」
戸惑うマルコさんのジャケットをぎゅっと握って、掠れる声で必死に声を絞り出す。
「こども、できなくても……っ、いっしょ、って」
「――っ、」
一緒に、いたい。
一緒にいてって、言って欲しい。
マルコさんが、いつかを夢見て頑張るというのなら、私だって頑張る。
歳の離れたERRORの面倒だって見てたんだから、少しくらい役に立てるはずだ。
マルコさんと一緒に頑張りたい。
マルコさんと一緒に、マルコさんの夢が叶う日を待ちたい。
途切れ途切れになりながら必死に紡いだ言葉は、マルコさんに届いただろうか。何度も深呼吸をし、目に溜まった涙を拭って。漸く落ち着きを取り戻してからずっと黙ったままのマルコさんをそっと見上げると、マルコさんはその大きな手のひらで顔の上半分を覆っていた。ほとんど隠れてしまった顔は見えなくて、時折落ち着かせる為か深呼吸をするマルコさんの口から、湿った吐息が漏れる。
「………マルコさん、」
ジャケットから手を離してマルコさんの空いた左手にそっと手を伸ばすと、大きな手が私の手を強く握った。何度も確かめるように私の手を握るマルコさんは、ほんの少しも離れたくないと言わんばかりに深く指を絡ませてくる。まるで縋るようなそれはマルコさんの気持ちを表しているようで、鼻を啜りながらそっと握り返した次の瞬間、その手を引かれて強く強く抱きしめられた。
泣き顔さえも愛しくて。
「リサ」
掠れた声が私の名前を呼ぶ。
「はい」
「俺と、結婚、してくれ」
子どもは出来ねぇかもしれないけど。
リサの夢を叶えてやることは出来ねぇかもしれないけど。
耐えるように声を絞り出したマルコさんは目が潤んでて、鼻も赤くなってて、いつもの余裕はどこにもなくて。でも、それが嬉しくて、ちょっとだけ可愛くて、愛しくて。
顔がゆるゆると綻んでいくのを感じながら見上げると、マルコさんは泣いた跡の残る顔でくしゃりと笑った。
私も、マルコさんと一緒にいたい。
言葉にするのももどかしくて、でもどうにかして伝えたくて。
伸ばした腕を首に絡めると、僅かに目を見開いたマルコさんが私を見つめて口を開く。何かを言いかけたその唇をキスで塞ぐと、ぱちぱちと目を瞬いたマルコさんは、やがてへにゃりと眉を下げて笑い、蕩けるような優しいキスをしてくれた。