認めよう。
確かに「どこに行きたい?」と尋ねたのは俺だ。
「どこでも良い」と言ったのも俺だ。
けれど、
「あ、じゃあ、先生の家に行ってみたい!」
顔が引き攣ってしまったのは仕方のないことだ。
同僚にシフトを交換してくれと頼まれたらしく、珍しく空いた土曜日。
俺の方も何も用事がなくて、朝からずっと一緒にいることが出来る日。それは初めてのことで、つまり、恋人となって初めてちゃんとした『デート』というものをすることになった日だ。
だが、リサくらいの年の女が行きたい場所なんて分かるはずもない。そもそも、デートらしいデートなどこの十数年したことがない。仕事を優先してきたから当然のことだが、こんな時ばかりはそれを後悔した。
こういうのは普通は男がプランを立ててエスコートするものなの! とサッチからお叱りを受けたが、デートっつったってどこに行けば良いのか皆目見当もつかない。無難に映画か? と思ったが、ありきたり過ぎるとダメ出しを食らった。他にも海だの水族館だの、頭に浮かんだものを端から口にしていったが、どれもこれもダメ出しを食らった。ならどこに行けと言うんだ。そもそもサッチはどこに行ってるってんだ。
考えることを早々に諦めた俺は――それでも頑張って考えた方だ――、結局リサの行きたい所に行こうと決めて尋ねることにした。どこか行きたい所はあるか、と。多少遠くたって、朝早めに出れば問題あるまい。その場合、彼女に運転席を譲ることだけは絶対にしないと心に決めて。
さて、この年離れた恋人はどこに行きたいと言うのだろうか。
今後の参考にしようと真剣に耳を傾けた俺に、この恋人はとんでもないことを言ってくれやがった。俺の家に行きたい、と。いつものように呼び方、と指摘する余裕すら持てない。
「………あー、」
「あ……えっと、ごめんなさい……迷惑、ですかね……?」
視線を泳がせた俺に気付いて不安そうに眉を下げるリサ。
迷惑? 違う、そうじゃない。そんな次元じゃない。
俺の、家。
それが意味することを、不安を滲ませる顔でこちらを見つめる恋人は気付いているのだろうか。否。気付いていないに決まってる。絶対そうに決まってる。
分かっているのに、ほんの少しばかり期待をしてしまう情けない自分に溜息が漏れた。
「ご、ごめんなさい、えと……あの、他の場所に……」
「いや……ただ、どうして………?」
先に進みたいと思ってくれてるわけでもないだろうに。窺うように見つめ返せば、リサも同じように俺を見つめながらエースの名前を口にした。………エース?
「この間、サッチさんのお店に行ったでしょ? マルコさんが席を外してる時にエース君が言ってたの。マルコさんの家は高級マンションですっごい広い、って」
期待に目を輝かせるリサに苦笑と溜息が零れた。
あぁ、そうか。エースか。また、エースか。あの野郎、そんな気は全くないくせに天才的に俺を追い詰めてくれやがる。
「えと……やっぱり、ダメ………?」
眉を下げるリサの頭に垂れ下がる犬耳が見えるのは気の所為だろうか。
こんな恋人を前にして断る勇気を持った人間がいたら、是非ともお目にかかりたい。
「まさか」
俺には一生かかっても持てそうにねぇから。
とうとうやって来てしまった土曜日。
待ち合わせの十分前に行くと、そこには既にリサの姿があった。俺に気付いてぺこりと頭を下げたリサがいつも以上に可愛く見えるのは、俺が過剰な期待をしちまっている所為なんだろうか。
「おはようございます」
「おはよう。今日はスカートなんだねい」
「あ、えと……今日先生の家に行くって友達に言ったら、スカート穿くべきだって言われて……」
そりゃ随分と余計な助言をしてくださったもんだ。
首の裏を掻くフリをして無意識に引き攣る頬を手のひらで押し潰し、「へ、変?」と不安げな顔をする恋人に「可愛いよい」と思ったことをそのまま告げれば、はにかんで顔を赤らめたリサが「そ、そのっ、せ、先生も、カ、カッコイイ、です」なんて言いながら更に顔を赤くする。思わず伸びそうになる手を理性で押し止め、気付かれないように深呼吸を一つして手を差し出した。
「ん」
最初の頃こそ恥ずかしがっていたリサも、今では慣れたのか動揺することなく自分の手を重ねてくるようになった。ふにゃりと緩んだ顔が幸せそうで、その隣に俺がいるという事実が幸せで。
二人して締まりない顔になってるだろうことは容易に想像出来て、人目を避けるように車へと乗り込んだ。
俺の家へ向かう道中、車の中は妙に静まり返っていた。何か話せば良いんだろうが、情けないことに何も出てこない。いい歳したおっさんが緊張してるなんて、笑えない。
赤信号になったのをいいことにチラリと助手席へ視線を向けてみれば、どこか硬い表情のリサがまっすぐ前を見つめていた。思わずそちらに視線を向けて、けれど何もないことを確認してまた視線を戻す。
「、あ、の」
「ん?」
リサの声は掠れていた。
恥ずかしかったのか、頬を赤らめたリサが咳払いをしてチラリと俺を見てくる。
「その……め、迷惑じゃ、ない?」
「どうして?」
この間も迷惑じゃないと言ったはずだ。それなのにリサの表情は冴えない。何を思い詰めているのかと思って問いかければ、昨日偶然イゾウに会ったのだとリサは言った。
「今日マルコさんの家に遊びに行くって言ったら、その……」
「?」
「マルコさんに”ご愁傷様”って伝えてくれ、って」
あの野郎。余計なお世話だ。
思わず舌打ちをした俺にリサが小さく肩を揺らしたのが見えて、慌ててそうじゃないと告げる。
「気にすんな、何もねぇよい」
「でも……あの、迷惑だったらやっぱり……」
「迷惑なわけねぇよい」
不安げに揺れる目を見つめ返してくしゃくしゃと頭を撫でてやれば、少しは安心したのかホッと安堵の息を漏らした。迷惑なわけがない。誰にも邪魔されずに一日ずっと一緒にいられるのだ。嬉しいに決まってる。
ただ、それでも。
「……我慢、出来るかねい」
「え? 何か言った?」
「いいや、何も」
理性が保つか心配だ。
「う、わぁ……」
マンションを見上げて目を丸くするリサに苦笑を零す。
「おっきい」だとか「高そう」だとか独り言を呟いていたリサは、今は必死に階数を数えている。その姿が幼稚園でのERRORの姿と重なって思わず吹き出すと、ハッと我に返ったリサが照れ臭そうに笑った。
「こっちだよい」
「はーい」
エントランスを抜けてエレベーターに乗り込む間も、リサはきょろきょろとあちこちを見回しては感嘆の息を漏らしていた。ひたすら「すごい」を繰り返すリサの顔は、つい先日、幼稚園の行事で大根掘りをした時のERRORの顔と同じだ。
玄関を開けると、リサは緊張に全身を強ばらせながらぎこちない動きで家の中へ入っていった。脱いだパンプスを揃えようとしゃがみ込んだ時にチラリと見えた胸元だとかスカートから覗く太ももから全力で顔を背ける。もう何と言うかいっぱいいっぱいだ。変態か、俺は。
「すご……」
リビングに入った時にリサが漏らした呟きに苦笑が浮かんだ。
初めて見る俺の部屋に意識を奪われている彼女の横顔に、緊張感が見当たらない。俺だけが勝手に一人で盛り上がってたと思い知らされるようで、何だか虚しくなってきた。乾いた笑みしか浮かばない。
分かっていた。分かっていたとも。
リサはただエースに聞いた『すっごい広い高級マンション』を見たかっただけで、それが『恋人の家』だってことも『家に二人きり』だってことも全く考えてないって事くらい。
分かっていた。
分かっていたさ。
「けど、ちょっとくらい夢見たって良いじゃねぇか……!」
「先生? 何か言いました?」
振り向いたリサに何でもないと笑みを返せば、首を傾げながらも部屋へと意識を戻したリサがきょろきょろと部屋中を見回しながらあちこち動き回っている。ベランダに近付いて眼下に広がる町に目を輝かせたり、硝子机をコンコンと叩いて「うおぉ……」なんて声を上げたり、ソファをつついて頬を緩ませたり。何がそんなに珍しいのか、自分の家にだってあるようなものを見ては嬉しそうに笑っている。
「楽しいかい?」
「うん!」
振り返り大きく頷いたリサの笑顔が、幼稚園で見るERRORのそれとぴったり重なって。
それはそれは大きな溜息が漏れた。
「え、え? あ、あの……ごめ、」
「いや……そうじゃなくて」
「………?」
俺が怒ってると思ったのか、今にも泣きそうな顔でこっちを見つめてくる恋人。
あぁ、もう。良いさ。分かった。分かってる。俺が馬鹿だっただけの話だ。
「烏龍茶で良いかい?」
「うん……あの、でも」
「ほら、こっち」
ソファに座り隣をポンポンと叩けば、不安げな顔のままリサが隣に腰を下ろした。微妙に空いた距離が何とも切ない。俺が溜息をついたことで不安にさせちまった所為もあるんだろう。
「迷惑じゃねぇから、気にすんな」
「うん……あの、はしゃぎ過ぎてごめんなさい」
「怒ってねぇって」
隣にある頭をくしゃくしゃと撫でると、不安の色を残した目が俺を見つめた。安心させる為にと顔を寄せて唇を触れ合わせれば、息を詰めたリサがみるみる真っ赤に染まっていく。
「真っ赤」
「わ、分かってます!」
これでほんの少しくらいは意識してくれればいい。
勝手に期待して勝手に落ち込んだのは俺だけど、そうさせたのはリサなんだから。
「っ、あー、もう! 緊張します……!」
「そりゃ良かった。もっとしてくれて構わねぇよい」
俺だけじゃ悔しすぎるから。
心の内で付け足した声が聞こえたのか、真っ赤な顔でこちらを睨んだリサは拗ねたように唇を突き出してそっぽを向いた。
「してますよ」
「え?」
「せんせーの家に来たいって言う前から、ずーーーっと緊張してます」
なのに先生は全然緊張してないし。
どうせ慣れてないですよーだ。
何さ、自分だけ余裕たっぷりで。
俺が聞き取れたのはそこまでだった。ブツブツ文句を言いながら不貞腐れているリサの横顔は相変わらず真っ赤で、徐々に目が潤んでいっているようにも見える。
あぁ、何だ。そういうことか。
「――ムカついた」
「っ、」
びくりと肩を揺らしたリサが、今度は血の気の引いた顔でおそるおそるこちらを振り返る。熱の冷めた頬に手を伸ばせば、殴られると思ったのか首を竦めながらギュッと目を閉じた。皺の寄った眉間に口元が綻ぶのを感じながら額をコツンと触れ合わせると、もう一度大きく身体を揺らしたリサがそっと目を開けて俺を見つめてくる。顰め面を想像してたのか、きょとんと目を丸くするリサにくつりと笑った。
「リサが思ってる以上に、俺はいっぱいいっぱいだよい」
「、るこ、さん……?」
掠れた声が俺の名前を呼ぶ。
静かな部屋に溶けたその声が、この後のことを期待しているようにも聞こえて。
これも勝手な期待だろうか――そんなことを考えながら、またそっと唇を重ね合わせる。啄むように触れていた唇が徐々に深く重なっていき、そのたびに零れ落ちるリサの艶を帯びた声や吐息が俺の思考を完全にストップさせた。
「………リサ」
「、は、い」
「一応言っとく。逃げんなら、今のうちだ」
逃がしてやれるかは分からないけれど。
ただ、言質を取りたいだけだ。そんな卑怯な俺への恋人からの返事は、
「………わ、私、だって……き、期待、してた、です」
どうしたって敵わない。
真っ赤な顔で視線を泳がせる恋人をじっと見つめると、耐え切れなくなったのかギュッとしがみついてくる。鼻を啜る音が聞こえる。
「な、何か言ってください……!」
何か言えと言われても。
「可愛い」
「っ、」
それ以外、言うことなんてない。
「………一回で終わらせられるかねい」
「わ、私っ、は、初めてなんですけど……っ!」
「リサが悪い」
「うわっ!」
ちょっと待った! 先生! ストップ! こ、心の準備が……!!
ソファに押し倒した途端慌てて逃げようとするリサを押し止めて首筋にキスを落とす。
「うひゃあっ!」
「リサ」
「っ、ず、ずるい! 先生ずるい!」
「大人はずるいモンだ」
手の甲を頬に滑らせれば、悔しげに俺を睨みつけていたリサが観念したように大きく息を吐き出した。それを了承と捉えて顔を寄せると、小さな小さな呟きが耳に届く。
「俺も」
引き合うように重なった唇まで熱い。僅かに不安の色を浮かべるリサを安心させる為にと強く抱きしめ、寝室へ向かうべくその華奢な身体を抱き上げた。