タンクトップの上に橙の法被を羽織り、紺の紐でギュッと縛る。鉢巻を捻って額に巻き付ければ、準備完了だ。
「うおー! カッコイイぞERRORー!!」
「うんっ!!」
姿見の前でくるくると回りながら自分を確かめるERRORに顔がニヤける。私の弟は今日も可愛い。
今日は幼稚園の夏行事、夕涼み会だ。
毎年七月の第二土曜日に開催されているという夕涼み会は、夕方の五時半から行われることになっている。今は四時五十分。あと十分もすれば家を出る時間だ。
「リサちゃん、パパとママは?」
「パパとママはもうお仕事終わって、今急いで帰って来てるからね。幼稚園にそのまま向かうって言ってたから、ERRORがお神輿担ぐのはちゃんと見てもらえるよ!」
「ほんと!?」
「うん! だから、ERRORはリサちゃんと一緒に幼稚園行って、そこでパパとママを待とうね」
「はーい!」
嬉しそうにはしゃぐERRORに顔が緩むのは仕方ない。可愛すぎるのが悪いんだ。
両親共に行事に参加するのは四月の入園式ぶりだし、ERRORが喜ぶのも無理はない。
忘れ物がないかチェック。よし、大丈夫。抜かりはない。
「よし! 行くぞERRORー!!」
「おー!」
私たち姉弟は、意気揚々と家を出た。
幼稚園に着くと、園庭には大きな櫓が組んであった。年長さんの代表が一番上にある大太鼓を叩くんだろう。ERRORも再来年には太鼓を叩くのかもしれない。考えるだけで楽しみだ。
「リサちゃん、こっち!」
「はいよー!」
櫓を見上げて未来に想いを馳せていた私は、ERRORに手を引かれて園舎へと足を運んだ。
既に殆どの園児たちがそれぞれの保育室に集まっていて、友達と楽しそうに遊んでいる。ERRORも仲のいい友達を見つけてそっちへ行ってしまったから、私はERRORの水筒を指定の場所に収めて保育室を出た。正直、人口密度が高すぎて耐えられない。暑いったらない。
あちこちで忙しそうに歩き回ってる先生達は皆ERROR達と同じように橙の法被を着ている。ねじり鉢巻もバッチリ装着してて、夏って感じだ。もしかして、マルコ先生も……? 想像できない姿にちょっとだけ笑みが零れた。
バッグからERRORが幼稚園で作ってきた団扇を取り出す。先生が作ったんだろうペンギンを象る画用紙に、ERRORが描いたと分かる目と鼻と口。今日の夕涼み会で保護者が使う為に作ったのだと話しながら、ERRORは団扇を私にくれた。あの時の両親の情けない顔はきっと暫く忘れない。
パタパタと扇ぐと送られてくる温い風。まぁ……うん、暑いから仕方ない。風は無いよりある方が良い。
「よぉ、お疲れさん」
背後からかけられた声に振り返り――ぽかんと口を開けた。
橙の法被。腰で結ばれた紺と白の帯紐。法被の下には何も着てないのか、逞しい胸元が覗いている。園児たちは下に体操着のズボンを穿いてるけど、先生たちは白の半股引を穿いている。それはマルコ先生も同じで、股引の上からでも筋肉質な太腿が分かる。いつもはジャージで隠れてる脹脛も筋肉質で、何か……男の人って感じがしてドキドキした。
「リサ?」
俯いたまま何も言わない私に首を傾げた先生が近付いてくる。ど、どうしよう……! 何か凄く緊張する……!!
付き合ってもうすぐ三ヶ月になる私達だけど、何と言うか……まだ、してない。何をって、その……こ、恋人たちがするようなこと、をだ。
平日は幼稚園で顔を合わせるだけだし、土日の夜にちょこっと会うくらいの私達だから、時間が無いことも理由の一つだったりする。多分。まだ心の準備が出来てない私にはちょっとだけありがたいんだけど、先生はどう思っているんだろう。
だからつまり、先生の素肌というものを見た事がないのだ。
半袖姿は見た事があるから腕は見た。けど、胸元なんて見た事ないし、園ではジャージだし(そう言えば暑くないのかな……)、ハーフパンツ穿いてる姿なんて見た事ない。初めて見る脚と胸元。そして法被。股引。何か……新鮮過ぎて何処からドキドキしたら良いのか分からない。取り敢えず言えることはがある。
「か、かっこいい、です」
俯いたままボソボソと呟けば、バッチリ聞き取れたらしい先生の手が私の頭に乗る。おずおずと顔を上げてみると、照れ臭そうな顔をした先生が笑いかけてくれた。
「ありがとよい、あー……その、リサも……可愛いよい」
「ど、どうも……」
「ただ……」
「?」
「………少し、短すぎやしねぇかい?」
先生の視線が下に向いていることに気付いて私も下を見る。決して細くはない太腿をさらけ出している。凝視されると少し恥ずかしい。太いって思われてたらどうしよう。
「あの、暑かったから……えと………すみません、太くて」
「そんなこと思っちゃいねぇが……何か、勿体ねぇな」
「え?」
「他の奴に見せんの、勿体ねぇ」
眉尻を下げて困ったように笑う先生。私はと言えば確実に茹でダコのように真っ赤になってるはずだ。何を言い出すんだこの人……! わざと? わざとなの? それとも無意識なの? 無意識のタラシなの? 天然なの?
「あ、あの……あり、がとう、ございます……? いや、すみません……?」
どっちを言えば良いんだろう。疑問形でお礼と謝罪を述べた私に、先生は笑って頭を掻いた。頭を掻くその手に握られていた鉢巻が見えた。
「それ、付けないんですか?」
「ん? あぁ……こういうの、苦手なんだよい」
「鉢巻嫌いなんですか?」
「いや………捻って結べって言われたんだが、上手く出来なくてな……」
要するに、ねじり鉢巻が結べないらしい。確かに、捻りながら頭に巻いて結ぶのを一人でやるのは大変かもしれない。
「あ、じゃあ……やりましょうか?」
「良いのかい?」
「はい、上手く出来るかは分かりませんが……」
「じゃあ……頼んだ」
先生の後をついて空いている保育室に入る。夕涼み会は今日と明日の二回に分けて行われるらしく、明日行うクラスの保育室は電気が消えていて静かだった。
園児用の小さな椅子じゃ小さすぎるんだろう。先生は床にべったり腰を下ろすと、鉢巻を私に差し出した。
「悪ィな」
「いえ、じゃあ失礼します」
鉢巻を受け取ってその場にしゃがみ込む。鉢巻を丁寧に捻っていくのを、先生は感心したように見ていた。
「器用だねい」
「いや、それが全然器用じゃないんです。鶴もまともに折れないんですよ。端を合わせてるつもりで折ってるのにいつもずれちゃって」
「ははっ、俺も似たようなモンだよい」
「でも、先生はピアノ弾けるんですよね? 保育士の資格取るために必要でしたよね、確か。私ピアノとか弾けないですもん」
「俺もピアノは出来ねェよい」
「え、そうなんですか?」
「試験はピアノかギターかアコーディオンだったから、ギターで受けたし」
「へぇ……すごい、ギター弾けるんですか……」
「あぁ、若い頃にちょっと齧ったんだよい」
そうなんだ。先生のこと、また一つ知れた。ニヤける顔を隠しつつ、ねじり終えた鉢巻を先生の頭に巻く。ぐるっと頭に回して横で結ぶと――うん、私にしては上出来だ。
「こんな感じで良いですか?」
バッグから鏡を取り出して尋ねる。先生は鏡を見ながら「スゲェな」なんて笑って頷いてくれた。
「ありがとよい、おかげで助かった」
「役に立てて良かったです」
受け取った鏡をバッグに戻しながら、立ち上がった先生を見上げた。やっぱりカッコ良かった。
夢みたいだ。こんなにカッコイイ人が、私の恋人だなんて。無意識に頬を抓っていた私を見て笑った先生は、つんつんと反対側の頬をつつきだす。
「リサは可愛いねい」
「……アリガトーゴザイマス」
お世辞だとしても嬉しい。そして恥ずかしい。カタコトで礼を言えばくつくつ笑い出す先生。きっと全部バレてるんだろう、恥ずかしい。でもやっぱり嬉しい。
「先生は太鼓叩くんですか?」
「あぁ、夕涼み会の後に教師だけの演奏があるんだよい。その時に」
「じゃあ、いっぱい写真撮っときますね。現像して先生にあげます」
デジカメを取り出して揶揄うように言えば、目を丸くした先生はニヤリと笑って私の耳元に顔を寄せた。
「自分の写真よりも、俺はリサの写真が欲しいよい」
「っ、」
動揺してる隙に私の手からデジカメをひょいと取り上げた先生が、カメラを構える。レンズはバッチリ私に向いていた。
「ちょ、ま、待った!」
私の制止などお構いなしに、先生はシャッターボタンを押す。慌てて手で顔を隠すのに、ピピッ、ピピッという電子音は止まらない。
「せ、先生!」
「こっち向けよい」
「む、無理ですって! あ、汗だくだし! 可愛くないし!」
「リサ」
優しい声で名前を呼ばれて心臓が跳ねる。チクショウ……そんな声で呼ぶの、反則だ。おずおずと手を下ろして先生を見れば、とんでもなく優しい顔でこっちを見てる先生と目が合った。ドキドキする。恥ずかしい。それなのに、目が逸らせない。先生の視線が私からデジカメへと戻り、またピピッ、ピピッと音が鳴り出した。
「………マルコ、せんせい」
「……参った。その顔、可愛すぎるよい」
最後にピピッと無機質な音が鳴ると、先生はデジカメの電源を切ってこっちへやって来た。伸びてきた手がそっと頬に触れる。
冷房の効いていない保育室はとんでもなく熱くて、廊下からは賑やかな声が聞こえてきてて、それなのに、先生も私も互いに見つめ合ったまま逸らせないでいた。
「、マルコ――」
せんせい、と続くはずだった言葉は一瞬だけ触れたものに遮られてしまった。
薄暗くて蒸し暑い保育室でのキスは、本当に一瞬触れただけだったのに物凄くドキドキした。顔が熱いのは暑さの所為だけじゃない。
「さすがに職場でこういう事する気は無かったんだが……しょうがねぇな、俺も」
困ったように笑いながらまた首を擦った先生に、真っ赤になった顔を両手で包みながらじとりと見上げる。
「………誰かに見られたら、どうするんですか……」
「そうだねい、その時は……」
ニヤリと笑った先生と目が合う。あぁ、もう。心臓が煩くて仕方ない。
「堂々と、奪わせてもらうよい」
ちょん、と唇に押し当てられた先生の人差し指。堪え切れなくなりその場に蹲った私に、先生は声を上げて笑った。
熱中症にご注意を。
「夕涼み会なのに、ちっとも涼めません……」
「そりゃ良かった。俺だけってのも癪だからねい」
「え?」
「ほら、もうすぐ始まるぞい。ERRORのトコに行ってやれよい」
背を押されて保育室を出ると、先生は「またな」と手を振って行ってしまった。その背中を呆然と見つめていた私は、迎えに来たERRORに声をかけられるまで一歩も動くことが出来なかった。