12


遠足が終わり、幼稚園に戻って少ない残務を終えた俺は四時前に退勤した。オヤジの見舞いに行こうかと思ったのは一瞬で、どうせ追い返されるのだろうと考え直して家に帰って来たが何もする気が起きない。
相変わらず気分は最悪で、ソファの背凭れに身体を預けながら大きな溜息と共に頭を掻き毟る。どうしようもなく苛々した。

前みたいに話せたというのに。漸く目が合ったというのに。あのメールさえなければ。いや、違う。分かっている。互いに上辺だけを取り繕っていただけだ。根本的な解決には程遠かったことは重々承知している。それでも、久しぶりにちゃんと話せたのだから、もう少しそのままでいたかった――などと考える俺はただ逃げているだけなのだろうか。

舌を打つと静かな部屋に嫌に響いて、それがまた俺を苛々させる。酒でも飲もうかと思ったが、立ち上がるのも億劫だった。再び溜息を零し、背凭れに身体を預けたまま目を閉じる。考えたくもないのに、浮かんでくるのは数時間前のリサの笑顔ばかりで、記憶の中にいるリサを求めている自分がどうしようもなく情けなかった。

「どうしろってんだ」

拗ねたような声音にまた嘆息。ガキか俺は。いい歳して何やってんだ。再び頭を掻き毟ろうと腕を上げると、何かがポケットから落ちた事に気付く。携帯電話だった。そう言えば番号を渡されたのだった。大体、リサの母親も何を考えているのだろうか。よろしくお願いします、などと書いてあったが、まさか本気でこんなに歳の離れたオッサン(何せ、リサよりリサの母親との方が歳が近いのだ)に大切な娘を任せるつもりなのか?

「………」

無言で立ち上がり、壁際に放置していた袋からジャージを引っ張り出す。ポケットに入れたままのメモは少しだけくしゃくしゃになっていて、けれどその内容はしっかり読むことが出来た。

いっそ、電話をかけてみようか。
かけてどうする?

この胸に巣食う蟠りと共に全て吐露してしまおうか。
そんなことをしてどうする?

好きだと、伝えてしまおうか。
答えなど分かりきっているというのに?

浮かんだ考え全てを打ち消す否定的な意見。どうやら俺は自分で思っていた以上に臆病になってしまったらしい。告白などしたって、答えは分かりきっている。それならばせめて、何故リサが俺を避けているのかだけでも知りたい。

半ば自棄だった。ソファに戻り、携帯を開いてメモにある番号を打ち込んでいく。最後に通話ボタンを押せば良いのだが、これがまた中々に手強い。

「あー……くそっ、」

携帯を脇に置き、ベチベチと顔を叩いて気合を入れる。そうだ、水でも飲もう。立ち上がり冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して再びソファに戻る。ゴックゴックと喉を鳴らして水を飲んだ俺は、深呼吸を一つして通話ボタンを押した。

『発信中』という文字が『呼び出し中』へと変わる。心臓が煩くなってきた。手が震える。深呼吸を繰り返し、口内に溜まる唾液を嚥下しながら耳元で鳴り続けるプルルルル、という音を聞き続けた。

結果として、リサは出なかった。それはそうだろう、知らない番号から出ない人間だっているのだから。俺の番号は教えていないから、やはりリサは知らない番号からの電話は出ないタイプだったらしい。口から漏れた溜息は安堵のものか落胆のものか判断出来なかった。諦めてなるものか。リダイヤルボタンを押した俺はやはり自棄を起こしていたのだと思う。

プルルル、という音が途切れる。出た。そう思って口を開いた瞬間、耳元から流れ出る留守番電話のアナウンス。用件があるのなら留守電に残せと、そういうことらしい。電話に出なかったことに落胆しているはずなのに、何故だろうか、俺は笑ってしまった。さて、留守電に切り替わってしまったからにはメッセージを残さなければならない。もう後戻りは出来ない。深呼吸を一つして、音声の後に続いたピーという無機質な音を待った。

「……俺、だよい」

声が震える。上手く話せているだろうか。というか『俺』だけじゃ分からないではないか。自らの名前を続け、用件を告げる。何度でも自分に言い聞かせた。もう後戻りは出来ないのだ。腹を括るしかない。七時に迎えに行く。無理なら折り返してくれ。それだけを告げて電話を切った。手には汗が滲んでいた。

「はっ、情けねぇなァ……」

今までだって恋人はいた事があるではないか。いい女だと思えば自分から声をかけた事だってあった。だが、未だかつてこんなに緊張したことはあっただろうか。
どうか電話が返ってきませんように。柄にもなく祈った。





時間が経つのはあっという間だった。約束の時間まで(と言っても一方的に持ちかけただけだが)残り数十分という頃になり、俺は家を出た。まるで死刑間近の死刑囚にでもなった気分だ。駐車場へと向いながら携帯を取り出して発信履歴から目的の人物を探して電話をかける。相手はすぐに出た。

『もしもし?』
「余計なこと話してねぇだろうな」

開口一番そう言った俺に、電話の相手は一拍間を置いて笑い出した。電話越しだからか、その笑い声がいやに癇に触る。舌打ちを零せば笑い混じりの楽しげな声が返ってきた。

『別に何も言ってないわよ』
「へぇ、じゃあ何でERRORが俺がリサを好きだって知ってんだよい」
『マルコが分かりやすいからじゃない?』
「余計なことしやがって……」
『何か言われたの?』

その問いには答えず、エレベーターを待ちながら俺は大きく息を吐き出した。

「どうせ暇してんだろい? 今晩付き合えよい」
『まぁ珍しい。そうね、愚痴くらいなら聞いてあげるわよ』
「笑ってくれりゃそれで良い」
『え?』
「フラれた俺を笑い飛ばしてくれっつってんだ」
『……フラれたの?』
「これからフラれに行くんだよい」

ポーン、という音と共にエレベーターの扉が開く。

「じゃあな」
『え? あ、ちょっと待っ……』

何か言っているが構わず電話を切ってやった。ぶっ倒れるまで飲むのも良い。呑んで呑んで、火曜には今までと同じように笑えるようになろう。出来ることなら、それまでにリサへの想いを捨てられれば良いのだけれど。
駐車場に着き、車に乗り込んだ俺は再度ベチベチと顔を叩いて気合を入れると、ゆっくりと車を発進させた。





リサの家の前に着いたのは約束した時間の五分ほど前だった。丁度帰ってきたらしいリサの母親と鉢合わせると、察したらしい彼女は何故か楽しげに笑って俺に頭を下げて家の中へ入って行った。

ナビに取り付けられた時計を見ながらリサが出てくるのを待つが、リサは中々出てこない。とうとう七時を過ぎても出て来なかったから、一抹の不安が頭を過ぎった。もしかしたら、顔を合わせるのも嫌だと思われているのかもしれない。このまま出てきてくれないかもしれない。考え出すと止まらず、携帯を手に取り電話をかけてみようかとも思ったが、やはりそれは嫌だと思い直してポケットへと戻す。出てくるまで待とう。それでももし出てきてもらえないのなら、そういうことなのだと言い聞かせるしかない。
せめて、好きだと言わせて欲しい。こんなオッサンに言われても嬉しくも何ともねぇだろうけど、困らせるだけだろうけど、それでも、言わせて欲しい。

「……出てきてくれよい」

ハンドルに置いた手を祈るように組み合わせたその時だった。僅かに開いた窓の外からガチャとドアが開く音が聞こえてきた。咄嗟に顔を上げれば、慌てた様子でリサが出てくるのが見えた。ホッと安堵の息を漏らして外に出ると、扉の前で呆然と立ち尽くしているリサが見えた。一つに結んだ髪は何故かぐちゃぐちゃで、パチパチと瞬きを繰り返すその目がぼんやりとしている事に気づいた。何だ、寝ていたのか。外に出てきたということは、無視するつもりは無かったらしい。表情が緩んでいくのが分かった。

「髪」
「、え?」
「すごい事になってるよい」

そう教えてやれば、呆然とこちらを見たままのリサの手が自分の頭に触れる。

「な、何これ!」

慌てて髪を解いて指を通しながら、リサが謝罪の言葉を口にした。やはり寝ていたらしい。早起きして弁当を作ったのだから眠くなって当然だ。疲れていたのに悪いな、と言えば、困惑した様子のリサが何故ここにいるのかと尋ねてきた。

「伝言聞かなかったのかい?」

そう言えば、リサは慌てた様子で首を振った。

「で、伝言聞こうとしたんですっ! でも流したら先生の声でビックリして携帯見てる間に再生終わっちゃってっ、もう一回再生しようとしたのにバッグが床に落ちてその時に間違って消去しちゃったみたいで……っ、その………ごめんなさい……聞いてません……」

手を振りながら必死に訴えてくるリサは、携帯代を払い忘れたって幼稚園に乗り込んできた時と同じような顔をしていて、それが何だか嬉しかった。

「お疲れさん。七時に迎えに行くから、無理だったら折り返してくれって伝言入れといたんだよい」

そう言えば、目を丸くしたリサが「へ?」と素っ頓狂な声を上げる。けど、その顔は話がしたいと告げた途端に緊張したものへと変わった。やはり、嫌なのだろうか。俺と話すことなんて無い。そう言われるのが怖くて「頼む」とごり押しすれば、観念したようにリサが頷いた。ホッと安堵の息が漏れる。

「財布と携帯持ってきます」

そう言ったリサに頷いて車に戻れば、数分で再び外に出て来たリサが緊張した様子で助手席に乗り込んだ。前に一度だけ乗せたのはほんの数週間前のことなのに、何故だかとても懐かしく感じた。

「あの……何処に行くんですか?」

車を走らせ始めてから数分後、遠慮がちにリサが口を開く。決めていないと告げれば、再び「へ?」と素っ頓狂な声が上がった。前を向いたまま深呼吸を一つして、口を開いた。

「俺のこと避けてるだろい」

リサの返事はなかった。何か気に障る事をしたかと尋ねても、やはりリサは何も言わない。僅かに眉根を寄せた俺の目に飛び込んだのは今日の遠足で行った公園へ向かう標識で、そこなら車も止められるかと考えて目的地を定めた。

「ずっと考えてたけど、やっぱり分かんねェんだよい。この間の飯の時かい?」

思い当たる節はないが、何か嫌な思いをさせてしまったのかもしれない。もう何度も考えたそれを口にすれば、リサは違うと首を振った。

「そんなんじゃ……ない、です………ご飯は、楽しかったし……嬉しかったです」

楽しかった?嬉しかった?

「じゃあ、どうして避けるんだ?」

問い詰めるかのように出た声は僅かに苛立ちを含む。リサの肩が僅かに震えた事に気付いてハッと我に返るが、もう遅い。こうなったらとことん問い詰めて聞き出すことしか俺には出来ないのだ。

「そ、れは……」

答えようとしたリサがすぐに口篭る。いつまで経ってもその先を言おうとしないリサをチラリと見やれば、バッグを握り締める手が震えているのが見えた。怖がらせたいわけじゃない。俺はただ、知りたいだけだ。上手く伝わらない事に苛立ちを隠せないまま頭を掻けば、またリサが震えた。

思ったより早く目的地に到着した。ギアをパーキングにしてサイドブレーキを上げてライトを切った俺は、手っ取り早く聞き出してしまおうとシートベルトを外した。身を乗り出して助手席脇のレバーを引っ張れば、シートに身体を預けていたリサの身体が後ろへと傾ぐ。

「ひゃっ、」

小さく上がった声を無視し、倒れ込んだリサに覆い被さるようにして腕をついた。俺は苛立っていた。勝手だとは分かっているが、男の車に乗り込んでこんな人気のない駐車場で、こんな風に押し倒されてるリサに苛立った。目を丸くしていたリサだったが、それはすぐに脅えの表情へと変わった。今更そんな顔をしたって、遅いというのに。他の男にもこんなに無警戒なのか?昼間のメールの相手にも?その気になれば、襲ってしまえるというのに。

「言えよ」

苛立ちを隠せないまま開いた俺の口からは優しさの欠片もない声が出た。怖がらせたいわけではないというのに。ただ理由が知りたいだけだというのに。ただ、好きだと――そう告げたいだけだというのに。避けてた理由を言えと言葉を重ねた俺の声は俺の意に反して冷たく突き放すようなものでしかなかった。
そっと頬に触れると、ギュッと目を閉じたリサが身を竦める。俺から逃げるかのように、俺を拒絶するかのように必死に縮こまるリサに何故だか酷く苛立った。触り心地の良い頬を滑らせて顎を掴み、強引に俺の方を向けさせれば、恐怖に脅えた目が俺を捉えた。

「言えっつってんだ」
「っ、ぁ……」

脅えて声も出せない様子のリサに、何故だか怒りが収まらない。どうして俺はこんなに怒っているのか。どうしてこんなに脅えさせてしまっているのか。怖がらせたいわけではない。そんなこと、俺だって望んじゃいないのだ。なのに、俺の口は俺の意思を無視して次々に冷たい言葉を吐き捨てる。リサを傷付けるだけのそれは、もしかしたら俺が心の奥底で思っていたことなのだろう。ボロボロと涙を流すリサを見ながらそんなことを思った。

押し返そうと伸びてきた震える手はちっとも力が入っていなくて、か細い声が拒絶の言葉を紡いだ瞬間、俺はその手を掴んでいた。必死に逃げようとする手を強く握りしめれば、更に拒絶の言葉がリサの口から紡がれる。

「はなしてっ、はな、してよぉ……」

ひっく、ひっく。泣きじゃくるリサはまるで小さな子どものようで胸が痛んだ。同時に、もっと泣かせてやりたいなんて考えた俺は歪んでいるのかもしれない。今すぐ抱きしめて口付けて、攫ってしまいたいとさえ考えているのだから、きっと歪んでいるのだろう。

「なん、なんでっ、せんせ、が、おこ、怒る、ですか!?」

癇癪を起こした子どものようにリサが叫ぶ。何で?そんな事も分からねぇのか?気付こうとしてくれないのはリサの方だ。けど、それは仕方のない事なのだろう。まさか、こんな歳の離れたオッサンに好かれてるなんて思いもしていないのだろう。

「私が……っ、さけ、てたって、べ、べつに」
「何とも思わねぇって?」

自嘲気味に問い返した俺にリサが頷いた。ほら、やっぱり。分かっているのに、リサの細い手首を掴む手に力が篭ってしまう。どうやら俺の身体は俺の意思を無視して動いているらしい。痛いって言われてんのに放してやることも力を緩めてやることも出来ないのだから。
目尻から溢れた涙がこめかみの方へ流れていく。とめどなく流れゆくそれは、今までなら俺を苛立たせ、鬱陶しいと思わせるだけのものだったというのに。俺の為に泣いていることがこんなにも嬉しいなんて。
そっと唇を寄せて涙を吸えば、一瞬で口内が塩辛くなった。同時に心臓が鷲掴まれたように苦しくなっていく。

「堪えるに、決まってんだろうが」

絞り出した声にリサがそっと目を開けた。涙の所為で見えないのだろう、リサの眉が困惑気味に寄せられた。赤い唇から憂いを含んだ吐息が漏れた。

「お前に避けられるのは、堪える」
「………マル――」

マルコ先生、そう呼ぼうとしたんだろう。話を聞く為に呼び出したのに、俺はそれを遮ってリサの唇に自分のそれを押し付けていた。





初めてのキスは、子どものように。





情けないったらない。触れ合わせるだけのキスにこんなにも緊張している。震えが伝わっているかもしれない。

呆然と俺を見上げるリサと目が合った。

どうしてリサなのだろうか。

どうしてこんなに歳の離れた彼女なのだろうか。

どうして、どうして、どうして――。

疑問ばかりが頭の中をぐるぐると駆け巡る。答えなど出ていないというのに、俺の口はあっさりとその想いを囁いていた。

「好きだ」

懇願するようなそれに、リサは悲しげに顔を歪めた。