09


「ありがとうございました」
「あぁ……気を付けて」
「せんせー、さよならー!」

俯きがちに挨拶を済ませて俺に背を向けるリサと、満面の笑みで俺に手を振るERROR。笑みを貼り付けて手を振り返した俺は、けれどズキズキと痛む胸に気付かずにはいられなかった。自覚した途端、無視できないほどの痛みが俺を襲う。自覚しないままの方が良かったのではないかと思うほどなのだから、俺は自分でも気付かない内にすっかり溺れてしまっていたのだろう。いい歳したオッサンが情けない。

次の日も、その次の日も。リサと目が合う事はなく、挨拶以外の会話もなかった。何か話しかければ良かったのかもしれないが、返事がなかったらと思うと何も言うことは出来なかった。

「きょうね、ママがおむかえくるの!」

あぁ、とうとう顔を合わせることも嫌になったのか。そんな事を考え表情を曇らせた俺に、ERRORは嬉しそうな顔で「リサちゃん、おとまりなんだよ」と教えてくれた。

「お泊まり?」
「うん、けんしゅーがっしゅくってゆってた」
「研修合宿? 学校のかい?」
「あのね、おっきなバッグでいっちゃったの」
「そうか……リサちゃんがいないと寂しいな」

くしゃりと頭を撫でてやると、さっきまでママが迎えに来ると嬉しそうにはしゃいでいたERRORの顔が一瞬で歪む。今にも泣き出しそうな顔で寂しいと俯いたERRORの姿が、ここ最近見るリサの俯いた姿と重なって見えた。重症だと自嘲せざるを得ない。

「せんせいもさみしいの?」

じわりと滲んだ涙を拭いながらERRORが俺を見上げてくる。

「……そうだねい」

胸の奥がぽっかり空いてしまったような、空虚なこの感覚を『寂しい』と形容するのなら。

「寂しい、なぁ」

あの可愛らしい笑顔も、拗ねた時に唇を尖らせる仕草も、耳まで真っ赤になって恥ずかしがる様も。頭の中で何度再生したか分からない彼女の表情を、また俺に見せて欲しいと思う。出来る事なら、俺だけに。

「リサちゃん、あしたかえってくるんだよ。あしたのあしたから、おむかえきてくれるって」

だからだいじょうぶだよ。そう言って笑ったERRORに、俺は苦笑を返す事しか出来なかった。





「この間までは元気だったのに。何でそんな辛気臭い顔してるの?」

翌日の夕方、いつもより早い時間に退勤してオヤジの見舞いにやって来た俺の顔を見て、エリザは呆れたような顔で腰に手を当てた。

「そんな顔のアンタをエドに会わせるわけにはいかないわ。ただでさえお酒が飲めないって文句ばっかりなのに、アンタのそんな顔見たらすぐにでも退院するって言い出しちゃうもの」

それは困る。これは本人には内緒だが、少しでも酒から遠ざける為の入院でもあるのだから、そんなに早く退院しては意味がない。苦肉の策としての入院はオヤジからすれば最悪なことだが、身体の調子が悪いのも事実で、今回の入院で多少なりとも回復してくれる事を願う俺達は、早く退院して欲しいと願う一方でもう少し入院していて欲しいとも思ってたりする。複雑な心境だ。オヤジに言わせれば「俺の身体をどうしようが、俺の勝手だ」なんだろうけれど。

「分かった、今日は帰るよい」
「あぁ、ちょっと待って。実は今、病室にサッチ達が来てるのよ」
「サッチ達が? ――あぁ、今日は定休日か」
「そうなの。そろそろ帰るって言ってたし、ヒマでしょ?飲むわよ」

有無を言わせないエリザに肩を竦めた。
一度病室に戻ったエリザはサッチとエース、イゾウを引き連れて戻って来た。趣味で呉服店を開いているイゾウは定休日というものを作らず、気分で決めている。客からしたらとても困るのだろうが、イゾウはそのスタンスを決して崩そうとはしない。それでも顧客が多いというのだから驚きだ。

「何だ? 久々に会ったと思ったらシケた面しやがって」

イゾウの開口一番がそれだったということは、俺はそんなにも酷い顔をしているのだろう。自分ではよく分からないが、家族には分かってしまうものらしい。嬉しいと思うが、気付いて欲しくなかったとも思う俺の心中は複雑だ。

「サッチ、アンタ達は先にマルコの家に行ってなさいよ。私は先生に呼ばれてるから後から行くわ。マルコも車でしょう? 残ってちょうだい」
「おー、じゃあまた後でなー」

俺を差し置いてサッチとエリザだけで会話が送られる。あっという間に俺らに手を振って去っていくアイツらに文句を言う気も失せてしまった。いつの間にか俺の家の合鍵まで作りやがって。

「さっさと行きましょ。パパっと聞いてパパっと帰って飲むわよ!」

オヤジが聞いたら臍を曲げそうだな、などと考えながら、俺はエリザに引っ張られて主治医の待つ部屋へと向かうのだった。

主治医の話と言っても、特別なことなど何もなかった。現在のオヤジの状態をペラペラと並べ立てて、これからどうするかというものだった。まぁ、結局はオヤジが酒を止めない限りはどうしようもないと言われて終わるのだけれど。いつもと同じだ。

「困ったわねぇ」
「そうは見えねぇよい」

駐車場に向かう途中、小首を傾げながら呟いたエリザにそう返せば、煩いという言葉と共に決して弱くない力でパンチを頂戴した。頬でなく腕だったのはありがたいが、ズキズキと痛む腕につい馬鹿力と呟いてしまった俺は悪くないはずだ。おかげでもう一発頂戴することになったのだけれど。

車を走らせること十数分。オヤジの会社を継いだビスタが見合いをしただとか、宝石商のくせに自ら原石を堀りに行っちまうジョズから連絡があっただとか、最近会っていない兄弟の話を聞きながら俺達は俺の家へと向かっていた。

「あら、電話……サッチからだわ――もしもし」
「どうせ、酒買って来いとか言うんだろい」

そうに決まっている。ここから一番近い店は何処だったか。ナビに視線を送ろうとした俺の目に飛び込んだコンビニの看板。あぁ、そうか。ここはリサの――。

「分かったわ、じゃあね。お酒とつまみ買ってきてですって。――あ、あそこのコンビニで良いわ、寄って頂戴」
「、あぁ……」

一瞬の躊躇は何を意味しているのか、俺自身にも分からなかった。会いたいはずなのに、会いたくないとでも思っているのだろうか。けれど今日は平日だ。休日しかシフトを入れていないリサに会うはずはない。会いたいと思うのに、会えない事にホッとしている自分もいる。支離滅裂だ。

「いらっしゃいませー」

ほら、やっぱり。レジにいたのはリサではなく、四十代後半くらいの女だった。いないと知っていたはずなのに、ホッとしていたはずなのに、リサがいない事を残念に思っている自分がいる。一体俺はどうなってしまったのだろうか。俺はどうしたいんだ?

「はい、カゴ」

差し出されたカゴを受け取り、酒コーナーへと向かう。銘柄なんて気にせず適当に缶ビールと缶チューハイをカゴに入れていくエリザに顔が引き攣った。せめて、銘柄くらいは気にしとけ。

「まだ飲むのかよい」

サッチからの電話はいつも「足りなくなるだろうから買ってこい」だ。つまり、まだ俺の家には酒が余っていることになる。俺は今日はそんなに飲みたい気分でもないし、エリザの分と適当にビールを十数本買っていけば良いはずだ。だと言うのに、エリザはとうとうカゴ一杯にまで酒とつまみを詰め込み、あろうことか二つ目のカゴを手にしようとしている。

「あら、全然足りないわよ」
「家にも残ってるんだから、そんなにあったって……」
「飲めなかったら残しておけば良いでしょ」
「家の冷蔵庫を酒まみれにする気か」
「今だって十分酒まみれのくせに何言ってんのよ」

頑として聞かないエリザに溜息を零して観念した。
満足気に「こんなものね」と笑う頃には二つ目のカゴも酒とつまみで溢れていた。二つのカゴを指して「レジ」と一言言い放ったエリザに、最早何も言うまいとカゴを持ってそちらに向かう。

レジに立つ店員が客に袋を差し出しながら何かを話しているのが見えた。知り合いなのだろう、別に驚くことではない。気にせずレジに向かおうとした俺は、袋を受け取った客の声に思わず足を止めた。

「わ、ありがとうございます!」

この声は、まさか――?
どくん、どくん。途端に煩くなる心臓。足を止めた俺をエリザが訝しげに見てくるが、それどころではない。思い切って一歩を踏み出してレジに向かうと、大きなバッグが目に入った。そのバッグを肩に掛ける人物へと視線を移す。店員に頭を下げた人物は、俺の見間違えでも何でもない。

「――リサ?」

びくりと身体を揺らしたリサがゆっくりと俺を振り返った。その視線は相変わらず俺を見ることはなく、俺の手元をチラリと見た視線がエリザに向かったかと思えば、暫くの間そこで静止した。エリザを見つめるリサは何を考えているのか分からなかったが、目を伏せる直前の表情は悲しげだったようにも思えた。

「、こんにちは」
「あら、マルコの知り合いなの?」

小さな声で挨拶をしたリサにエリザが俺を見る。まさか、この前話したリサだ、などと紹介出来るはずもなく、俺はただ「あぁ」とだけ答えてリサへと視線を戻した。

「……合宿から帰って来たのかい」

話しかけてから気付く。小さなレジ袋(中にいちごオレが入っているのが透けて見えた)を持つ手が小さく震えているのが見えた。けれど、理由が分からない。

「……リサ?」

なぁ、お前は何を考えてるんだ?顔を上げて、俺を見てくれ。何か不満があるのなら、言ってくれなきゃ分からない。伸ばしかけた手は、俯いたままのリサが突然頭を下げたことでピタリと止まった。

「失礼します。――お疲れ様でした、これ、ありがとうございます」

店員を振り返ってもう一つの袋を指した礼を言ったリサは、そのまま俺に背を向けて歩き出す。

「リサ!」

咄嗟に呼びかけたけれど、リサが振り返る事はなかった。





初めての本気の恋は、ただただ苦く。





どうやって会計を済ませたのかも覚えていない。気が付いたら袋一杯の酒を両手に玄関に立っていた。

「遅ェぞ! ――って、マルコ?どうかしたのか?」

まるで犬のように玄関まで駆けてきたエースが俺を見て首を傾げる。けど、返事をする気にもならなかった。瞼の裏に焼き付いたリサの後ろ姿に、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだった。

「エース、これ持ってってちょうだい」
「ん? おぉ……」

俺の手から酒とつまみの入った袋を受け取ってエースがリビングへと戻って行く。静かになった玄関に未だ立ち尽くしていた俺は、焦点の定まらない目で肩に乗せられた手を見た。

「取り敢えず、中に入りましょう。ね?」
「………」

コクンと頷いて緩慢な動きで靴を脱ぐ。リビングに行くと、あちこちに空き缶が転がっていて、たった数十分だというのにサッチもイゾウもいい感じに酔っ払っているようだった。赤い顔の二人が俺を見る。その目が大きく見開かれて、すぐさま困ったような顔になった。

「ま、取り敢えず座れや!」

サッチが指した場所にのろのろと座り込み、イゾウがわざわざプルタブを起こして渡してくれた缶ビールを一気に半分くらいまで飲み干す。

「よし、今日は吐くまで飲むぞー!!」
「おー!!」

サッチの言葉にエースが拳を突き上げて吼える。馬鹿みてぇに騒ぐ二人に声を上げて笑ったイゾウが俺につまみを寄越してくる。

「言いたくねェなら聞かねぇが、話して楽になることもあるんじゃねぇか?」
「…………」
「ま、無理にとは言わねぇよ」
「あら、私は聞きたいわ。さっきの子がリサちゃんなのよね? 喧嘩したの?」
「ちょっ、エリザ!」

折角イゾウが気を遣ってくれたというのに、エリザの言葉で水の泡だ。的確に核心をついたエリザに狼狽えたイゾウが焦った声を上げる。喧嘩か……。

「喧嘩もさせてもらえなかった場合、どうすりゃ良いのかねい……」

ポツリと零した声はか細く、サッチ以外の奴らの目が大きく見開かれた。

「マ、マルコ……?」
「えっと……大丈夫?」
「……こりゃ、重症だな」

エース、エリザ、イゾウの呟きにも答えることが出来ない。

「取り敢えず、飲めよ」

ホラ。そう言って俺の前にずいと押し出された沢山の缶ビール。顔を上げれば、サッチは全て分かってるという顔で笑っていた。

「サッチ……」
「俺には分かるぜ、マルコ……こんなに好きだって思ってんのに、全ッ然相手にしてもらえない気持ち……!!ジェシカちゃんの馬鹿……!!」
「…………」

肩まで組んで「バカヤロー!」と喚くサッチのリーゼントを握り潰し、その口にまだ空いていない缶ビールを強引に押し込んでやった。

「アイツは馬鹿だな」

イゾウの呟きにエースとエリザが大きく頷いた。