08


カラン。グラスの氷が小さく音を立てた。何となくつけたテレビは全く興味の持てないクイズ番組が流れていて、たびたび上がる笑い声が癇に触りテレビの音量をゼロにした。いっそ消してしまおうかとも思ったが、この薄暗い室内ではテレビの明るさのおかげで物が見えている状態だから消すことは出来ない。立ち上がって部屋の明かりをつければ万事解決だということは重々承知しているが、立ち上がる気になれないのだから仕方ない。

「はぁ……」

口から漏れる思いの外大きな溜息。何故かは分からないが、どうやら俺は相当ショックを受けているらしい。

もう三日前のことだ。
いつものようにERRORの迎えに来たリサに話しかけた時、どういうわけかリサは俺と目を合わせようとはしなかった。あからさまに避けられた視線。言葉少なに行ってしまった彼女に酷く驚いたし動揺させられた。
何か気に障ることをしてしまっただろうか?それを問い質そうにも、目すら合わせてくれない彼女に話しかけるタイミングが分からず、結局あっさり遠ざかっていく背中を見つめる事しか出来なかった。それとなくERRORに尋ねてもみたが、当然ながら何の情報も得られなかった。

「………何だってんだ」

不思議なのは、そのことに俺が酷く動揺しているということだ。そりゃあ、今までは普通に話をしてたし、一緒に飯を食いに行ったし、他の保護者よりはリサと親しくしていたと思う。けど、あくまでリサはERRORの保護者代理であって、俺の教え子でも友達でも、ましてや恋人でもない。何か思うところがあって俺を避けているのなら、下手に口を出さずにそっとしておく方が良いだろう。
分かっている。頭では分かっているのだ。

けれど、

『あ……こんにちは、ありがとうございました』

足元を見つめる視線。無理やり作られた笑顔。関心のない声。言葉少なに俺の脇をすり抜けて行くリサの腕を掴んで、問い質したくなる衝動を堪えるのに必死だった。俺が何かしたか?って。俺のことが嫌いになったのかい?って。今までそうやって縋り付いてきた女たちを鬱陶しく思っていたはずの俺が、まさかそんな事を言いそうになる日がくるなんて思ってもみなかった。

「くそっ……!」

何故こんなに動揺しているのか分からない。何故こんなに苛々しているのかも。避けられ始めてから、余計に頭にこびり付いて離れないリサの笑顔に問いかけても、答えなんて与えられるはずもなかった。





「せんせー」
「うん?」

体操の時間が終わり、使用したCDなどを片付けていると保育室に戻ろうとしていたERRORに声をかけられた。どうした?そう尋ねながらしゃがみ込めば、ERRORは内緒話をしたいのだろう、口元に手を添えて俺に近付いてきた。

「あのね、リサちゃんね、マルコせんせーきらいじゃないっていってたよ」
「………」
「けんかしてないって」
「………そうかい、ありがとな、ERROR

優しく頭を撫でてやれば、嬉しそうに細まる目。ふにゃりと緩んだ口元がリサのそれと似ている、なんて思った瞬間に甦るのは遠ざかっていく小さな背中で、ズキリと胸が軋んだことで漸く俺が思っていた以上に重症だったのだと気付いた。

「せんせ、なかないで」

いいこいいこ、と小さな手が俺の頭を撫でる。俺はそんなにも泣きそうな顔をしているのだろうか。リサに避けられているだけで?こんな小さな子どもに心配されるほど落ち込んでいるとでも言うのだろうか。

「大丈夫だよい、ありがとな」

何がどう大丈夫なのかも分からないくせに、ただERRORを安心させる為だけに笑ってみせた。





「そりゃお前、完全にハマッてるだろ」

夜、仕事を終えて俺の家にやって来たサッチに話すと、サッチは呆れたように笑ってそう言った。思わず零れそうになった舌打ちを酒と共に飲み込んでサッチを見れば、何が楽しいのかニヤニヤと気色悪ィ顔でこっちを見ている。

「何かしたんじゃねぇの? あーんな楽しそうにしてたのに、避けられるって相当だろ?」
「分かったら苦労しねぇよい。俺だって何が何だか……」

そもそも、何故こんなに気になるのかすら分からないのだ。長い人生、生きていればこういう事もあるだろう。

考えるのを止めてしまえば楽になれるのに、何故か俺は馬鹿みたいにリサの事ばかり考えてドツボに嵌っている。

「少なくとも、飯の次の日までは普通だった」
「本当か? 実はドン引きされてたとかじゃなくて?」
「………お礼だ、ってクッキーくれたんだよい。家族の話をした時だって笑ってくれてたし、来月の遠足の話をした時だって――」
「つーかよ、お前はまだ気付かねぇフリ続けんのか?」
「………」

遮ったサッチの呆れた声に眉間に皺を寄せる。言いたい事は分かる。俺がリサをそういう風に見てるなんて事は認めたくねぇが、確かにリサという存在を気にかけている。それは認める。俺は、前みたいにリサと話せるようになりたい。

「話すのが楽しくて? 毎日のお迎えの時間が楽しみで? 俺らに紹介したいと思うくらい気に入ってて? オヤジとエリザにも惚気ちまうほどで?」
「別に惚気けたわけじゃ、」
「避けられると悲しくて、寂しくて、あの子の事ばっか考えちまって? ――そんで、何だって? あの子のことどう思ってるんだったか?」
「…………」

嫌な奴だ。まるで、俺がリサに惚れてるみてぇじゃねぇか。そんなに楽しみに思ってたわけじゃ……いや、どうだろう。

ERRORから『リサちゃん』の話を聞くのが楽しみだった。今日はどんな話を聞かせてくれるんだろうって思ってた。
リサと話すのが楽しかった。コロコロと表情が変わるのを、いつまでも見ていたいと思ってた。
サッチ達もきっと気に入ると思ったから、連れていった。ただ、会わせてやりたかった。サッチ達にリサを会わせてやりたかったのか、リサにサッチ達を会わせてやりたかったのか……俺は、どっちだったのだろうか。
オヤジ達に話したのは、丁度リサの話が出たからで……オヤジ達が聞きたいって言ったからで………。

「お前よォ、あの子の話する時、オヤジの事を話す時と同じくらい締まりねぇ顔してるって気付いてたか?」
「………」
「いい加減、認めてやっても良いんじゃねぇの?」

酒を一気に飲み干して立ち上がったサッチはそのままキッチンへと向かった。つまみでも作るのだろう。

「新メニュー考えたんだけどよ、俺としては是非ともあの子に食ってもらいたいわけよ。だから、とっとと腹括ってモノにしてこいよ」
「………」

リサを?俺が?

「……俺は……リサが好き、なのか?」
「んなこたァ、お前にしか分かんねぇだろ。ただ、俺らにはそういう風に見えるって話だ」
「……俺が……リサを……」

すき。リサのことが。好き。俺が。
有り得ない。そう思っていたはずなのに、その仮説は余りにもあっさりと俺の中に落ちてきた。

「………分かんねぇよい」

自分でも驚くほどにか細い声は、蛇口から流れ出た水の音に掻き消された。





初めての感情に戸惑う。





「早いに越したことはねぇよ」

何の事かなんて聞くまでもない。黙り込んだままの俺に、畳み掛けるようにサッチが続ける。

「サッチ様が簡単に分かる方法を教えてあげよう。はい、目ェ瞑ってー」
「………」

一瞬だけ拒もうと思ったが、そんなに簡単に分かるのならと俺は大人しくそれに従った。目を瞑った俺を確認し、サッチが更に続ける。

「エースがいます」

エースの顔が思い浮かぶ。

「リサちゃんがいます」

リサの顔が思い浮かぶ。並ぶ二人の笑顔はやはり何処か似ていて、でも何処か違っていた。

「はい、二人がキスしまーす」
「ふざけんな!」

徐々に近付いていく二人を、目を開けることで追い払った俺はサッチを睨み付けた。けれど、サッチは楽しそうに声を上げて笑ってやがる。腹立たしい。

「答え、出ただろ?」
「あァ?」
「嫌だったんだろ? 二人がキスすんのが」
「、」
「つまりは、そういう事だ。サッチ君あったまいー!」

一人きゃっきゃとはしゃぐサッチを横目に、俺は頭を抱えた。違う、あれはエースが相手だったからで。けど、きっとそう言えばサッチは「じゃあ俺で試してみれば?」なんて言うんだろう。尚のことダメだ。想像したくもない。ならば他の男で――いや、でも。

あぁ、つまりそういう事なのか。

「はぁー………」

大きな溜息を吐き出した俺の肩をサッチが宥めるように叩く。顔を上げてサッチを見れば、サッチはニタニタ笑いながら「頑張れ、兄弟!」なんて親指を立てる。ムカつくからその指を逆方向に曲げてやった。