07


そんなはずはない。家に帰った後も何度も何度も自分に言い聞かせた。だが、言い聞かせているという事自体が俺がリサをそういう風に見てるって肯定しているようで。正直に言おう。俺はとにかく混乱していた。サッチと別れて家路を歩きながら二回信号を無視して車にクラクションを鳴らされたし、エレベーターのボタンは間違って別の階を押しちまったし、挙句に家の鍵を何処にやったか思い出せずに五分近くポケットや鞄を漁り、漸く見つけたと思ったら何故か手元が狂って鍵を落としてしまったり。とにかく酷かった。酔っていた訳ではない。むしろ頭は冴えていた。

「何やってんだ俺は……」

一夜明けた今日もヘマをした。体操で使うCDを職員室に忘れてしまっただけで大した問題ではなかったが、未だかつてそんなヘマをした事がない俺はそんな自分にショックを受けていた。

「ぽんぽんいたいの?」

首を傾げながら覗き込んでくるERRORの顔までリサに見えるから問題だ。なまじ似ているものだから尚のこと彼女に見えて仕方ない。心配そうに俺を見つめるERRORに何でもないと頭を撫でてやるが、安心した顔で笑うERRORと昨夜のリサが重なって、しかも、あぁやっぱり似てるな、なんて思った途端に動悸がするから平静を保つのに必死だった。一体俺はどうなってしまったのだろうか。

ERRORーお待たせー!」

昨夜ぶりに聞いたリサの声に何故か身体が跳ね、いつもと同じ挨拶をするだけなのに緊張する。あぁ、本当に俺はどうしてしまったのか。まさか。いや、そんなはずはない。けど、まさか。いや、絶対に違う。

「あ、マルコ先生! こんにちは!」

俺と目が合うと優しく細まるリサの目。リサの笑った顔はやっぱりERRORと似ていて、けどERRORよりも大人びていて何処か優しい。どくん、と跳ねた鼓動に、あぁ、まずいと直感的に悟った。

「先生?」
「――、昨日は大丈夫だったかい? 怒られたりしなかったか?」
「大丈夫ですよ、日付超えたわけでもないですし、バイトの時はもっと遅いんですから」
「そりゃ良かった」

微笑んだ俺に彼女も表情を緩めて昨日はありがとうございましたと頭を下げる。けど、礼を言うのは俺の方だ。

リサの言葉にサッチがどれだけ喜んだことか。一緒になって盗み聞きしてたエースも嬉しそうに笑ってたってサッチが言っていた。俺だって嬉しかったし、リサを連れて来て良かったって思えた。アイツらのおかしな言動でリサだって少なからず嫌な思いをしたはずだ。それでも楽しかったって言ってくれた事が嬉しいと思ったし、また一緒に行きたいとも思った。

「先生はあのレストランの常連さんなんですか?」
「ん?」
「エースさんとも凄く仲が良かったから」

あぁ、そう言えばエースのことは言ってなかったんだったか。サッチもエースも俺の兄弟だ。そう言うとリサは酷く驚いた様子で声を上げた。

「兄弟なんですか!? ――って、アレ……?サッチさん、確か先生と同い年って……」
「あぁ、血は繋がってねぇんだ」
「あ、そうなんですか」

あっさり納得したリサに思わず笑みが零れる。どうでも良いと思っているのか、ただ単に何も考えていないだけなのか、下手に気を遣われる事を嫌う俺にはリサのあっけらかんとしたその態度は心地良かった。
尊敬するオヤジのこと、騒がしい兄弟のこと。自分がおしゃべりだと思ったことはないが、どうしても家族のこととなると饒舌になっちまうらしい。ハッと我に返り、おそるおそるリサへと視線を向けた。

「大好きなんですね、家族」

優しく細められた目元。緩んだ頬。僅かに頬が赤くなっているように見えるのは、気の所為だろうか?俺の心臓がやたらと煩いのは、きっと気の所為だ。……気の所為だ。

「そういや、来月の遠足は誰が来るんだい?」

気を紛らわす為に新たな話題を上げれば、キョトンと目を丸くしたリサが「へ?」なんて素っ頓狂な声を上げた。

「遠足? あるんですか?」
「知らねぇのかい?」

てっきりERRORから聞いていたと思ってたのに。その日の出来事を話すことで頭がいっぱいだったのかもしれない。保護者にはプリントで報せてあるが、リサの反応を見るに、どうやらそういったものは全てリサではなく親が目を通しているらしい。まぁ、当然と言えば当然だが。

「来月の第一土曜日にあるんだよい。ここは毎年その日に遠足があるらしくてな」

県営の公園はとにかく広くて、遊具やアスレチックなどが集まる子ども用の冒険広場や、カップルや家族がレジャーシートを広げたりペットと共に遊んだりする芝生広場、野鳥の集まる池、サイクリングやジョギングなどもする事が出来る。園内に設置された建物には温水プールなんかもあり、平日・休日問わず人が集まっているらしい。下見に行った先生からそう聞いただけで実際に行ったわけではないのだけれど、話を聞く限りでは子どもが遊ぶには持ってこいの公園だ。

「土曜日ならお母さんが行くと思います。お父さんは仕事かもしれませんけど……先生も行くんですか?」
「あぁ、引率する事になってるよい。リサも来るかい?」
「うーん……行きたいなって思うんですけど、多分バイト入ってるんですよねぇ………」

あぁ、そうか。バイトか。まぁ、確かに休日だし、ERRORも親が来てくれれば喜ぶだろう。ほんの少しだけ残念に思うが(何故そう思うかは考えない方が良さそうだ)、バイトならば仕方ない。残念そうな顔で園庭で友達と遊ぶERRORへと視線をやったリサの頭をポンポンと叩いてやれば、少しだけ緩んだ頬に視線が釘付けになった。喜んでくれているのだろうか。いや、照れているだけかもしれない。親に頭を撫でられることなんてもうないだろうから、そういう意味で喜んでいるのだろう。

「――あ、そうだ」

突然声を上げたリサがバッグから何かを取り出した。小さな紙袋のようだ。首を傾げながらそれを視線で追えば、ずいと目の前に差し出される。

「何だい?」
「昨日のお礼です」

そう言って笑ったリサと紙袋とを交互に見る。お礼?昨日の?

「俺に? 礼なんかいらねぇのに」
「ご飯ご馳走になっちゃったし、家まで送ってもらったので……大したものじゃないんですけど」

ありがとうございました。笑ったリサにまた心臓が跳ねる。
どうやら俺はリサの笑った顔に弱いらしい。きっとERRORに似ているからだ――そう思いたかったが、どうやら違うらしい。
けど、違う。これは恋とかそういうのではない――はずだ。今まで付き合った女はどちらかと言うとリサとは反対のタイプだったし、そもそも俺はロリコンではない。歳が離れすぎているリサにそんな感情を抱くなど、あるはずがない。あってはならない。

それでも。

「あの……えっと、迷惑でしたか……?」

不安げに揺れる瞳と八の字になった眉。窺うように見上げたその顔は、素直に可愛いと思った。

「気ィ遣わせるつもりじゃなかったんだが……ありがとよい」

紙袋を受け取りながら礼を言った俺の声は、何処か弾んでいた。





「随分と上機嫌じゃねぇか」

病室に入るなりオヤジにそう言われ、思わずその場で足を止めた。ニヤリと口端を上げるオヤジに頭を掻きながら歩み寄る。

「別にいつもと変わらねぇが……そう見えるかい?」
「あぁ、随分と惚けた面してやがる」

くつくつと笑うオヤジに、慌てて自分の顔を触ってみたがよく分からなかった。そんな腑抜けた面をしてるのだろうか。

「惚れた女でも出来たか?」
「、」

そんなもんいねぇよい。いつもならするりと出てくるはずのそれは、何故だか今日に限って出て来なかった。少しの間を置いてノーと答えた俺にオヤジはまた楽しそうに声を上げて笑う。

「会ってみてぇもんだ、お前にそんな面をさせる女に」
「だから違ェって……」
「そう言えば昨日、サッチのレストランに女の子連れてったんですって?」

開けたままの扉から入って来たエリザの余計な言葉に舌を打てば、片眉を上げたオヤジが「親に隠し事たァ、やるじゃねぇか」なんて楽しげに笑う。ガシガシと頭を掻きながら近くにあったスツールに腰を下ろした俺にクスクス笑いながらエリザもその隣のスツールに腰掛けた。どうやら俺を揶揄う気満々らしい。

「それで? どんな子なの?」
「だから、そういうんじゃねぇって言ってんだろい。教え子の姉ちゃんを飯に連れてってやっただけで……」
「あら意外。貴方そんな事が出来たの?」

くすくす笑うエリザをじろりと睨み付けるが、笑顔で躱されてしまう。大袈裟に溜息をついてみせた俺は園で一番俺に懐いてくれているERRORと、その姉であるリサの話をしてやった。共働きの親の代わりに迎えに来ていること、平日はERRORの面倒を見ているということ、二人がとても仲が良いということ。

「あの日はERRORのお袋さんが仕事が早く終わったからって迎えに来たんだが、リサの携帯が止まってたから連絡が取れなかったらしくてよい。その上、電車が止まっちまったからERRORがずっと園で待ってるもんだと思い込んでたみてぇで……すげぇ泣きそうな顔で駆け込んでくるから吃驚したよい。俺がもう帰ったって言ったら真っ赤な顔で座り込んじまって、それで――」
「ふふっ……面白いわね、その子」
「あぁ、見てて飽きねぇよい。俺ももう上がりだったから家まで送ってやるって言ったら慌てて首振って……悪いですなんて、立つことも出来ねぇくせに遠慮してよい。飯でもどうだって言ったらまた遠慮してんのに腹鳴らして、」

思い出すだけで笑いがこみ上げてくる。あの時のリサの真っ赤な顔は今でもハッキリ思い出せる。レストランでのやり取りを思い出しながら話している間、オヤジもエリザも穏やかな表情で耳を傾けてくれていた。いつもオヤジと会う時は決まって誰かが一緒で、中々こうして三人だけで話す機会はない。仕事の後に車を飛ばして来た甲斐があった。何歳になっても親に話を聞いてもらえるというのは嬉しい事で、自然と緩む頬をどうする事も出来ずに話し続けた。全てを話し終えた頃にタイミング良く面会時間が終了するというアナウンスが流れ、まだ話し足りない気もしたけど俺は席を立って鞄を持った。

「また来るよい」
「あぁ、気を付けて帰れよ」
「今度はその子も連れて来てちょうだい」
「勘弁してくれよい」

俺の親に会ってくれ、なんて言えるはずがない。俺は先に病室を後にして廊下でエリザを待った。エリザとオヤジのキスなんて嫌というほど見たが、だからと言って望んで見たいとは思わない。俺はサッチと違って、二人きりにしてやるくらいの気遣いは出来る。

「お待たせ」
「歩きなら送るよい」
「あら、ありがと」

余りにも自然に腕を組んできたエリザと病院を後にする。エリザの外見が若いからまだ我慢出来るが、母親と腕を組んで歩くというのには些か抵抗がある。今更何を言っても無駄だということは重々承知しているのだけれど。
車に乗り込み、エリザの家へ向けて車を走らせる。飯はどうするのかと聞かれたから、サッチの所にでも行くと答えればたまには食べて行けと命令された。オヤジが入院して約一ヶ月。一人分の食事も独りで過ごす家も、耐え難いのだろう。気丈に振舞っているが、不安にならないはずがないのだから。

「スーパーに寄ってちょうだい」
「了解」

数百メートル先に見つけたスーパーに駐車して中へ入る。カゴを乗せたカートを当たり前のように押し付けられた。入院前はオヤジと買い物にも行っていただろうが、まさかオヤジにカートを押させていたのだろうか。余り想像したくない。

「あとは酒ね」

割引シールの貼られた惣菜や弁当を適当にカゴに突っ込んだエリザが言い放った一言に俺の顔が引き攣る。

「おい、俺は車だぞい」
「泊まってけば良いじゃない」
「………明日も仕事だって知ってるかい?」
「勿論」

にっこり微笑んだエリザは、俺の反論を待たずして一人酒コーナーへと行ってしまった。カツカツとヒールを鳴らして遠ざかるエリザを見送り溜息を一つ零す。今日は徹夜か。明日は辛そうだ、と幾分肩を落としながら後を追おうとした俺は、何処かから聞こえた「マルコ先生?」の声にぴたりと足を止めた。

「あぁ、やっぱり。こんばんは」
「あぁ、ERRORの……こんばんは」

一瞬誰だか分からなかったが、こんばんはと笑った顔ですぐに分かった。ERRORとリサの母親だ。仕事帰りなのだろう、髪を纏めパンツスーツを身に纏った彼女は俺と同じようにカートを押しながら近付いてきた。

「お疲れ様です、今帰りですか?」
「そうなんですよー、もう残業ばっかりで……ERROR、上手くやってます?」
「えぇ、友達とも楽しく遊んでいますよ」
「なら良かった。――あ、昨日はありがとうございました。ごめんなさいね、リサまでお世話になっちゃって」
「いえ、こちらこそ……お礼だ、ってクッキーを頂いてしまって」
「あら、本当に? そういう事が出来る子だったのねー、良かった」

ケラケラと笑う顔はやっぱりリサとERRORと似ていて、殆ど話したことがないというのに何故か酷く安心した。ほのぼのとした空気を断ち切ったのは「マルコ!」と俺を呼ぶエリザの怒った声。

「何してるの? 早くお酒選んで――って、あら? お知り合い?」
「あぁ、幼稚園の……」
「あ、園の子のお母様? こんばんは、エリザといいます。マルコがいつも――むぐっ」
「すみません、じゃあ俺はこれで」

余計な事を言い出そうとするエリザの口を塞ぎ、リサの母親に作り笑いで挨拶を済ませる。

「あ、はい、こちらこそ……どうも」

会釈をして別の方向へと歩き出す。酒コーナーに着いて漸くエリザを解放すると、物凄く不機嫌な顔のエリザがじろりと俺を睨みつけてきた。

「ちょっと! 何するのよ、挨拶してないのに!」
「それが嫌だから口塞いだんだよい! 何言うつもりだった!?」
「勿論、マルコがいつもお世話になってます、よ! 何か文句あるの!?」
「大アリだ!! 無駄に若作りしてんだから、外で俺の母親だって言うの止めてくれよい! 恥ずかしくて仕方ねぇだろうが!」
「無駄にって何よ! 若いママで嬉しくないの!? エドは綺麗な私を褒めてくれるのに!」
「そういう問題じゃなくて! あー、もう、ほら! とっとと酒買って帰るぞい!」

まだ喚き足りなさそうなエリザの腕を引いて適当に酒をカゴに突っ込んだ俺は、会計を済ませるべくレジへと急いだ。





初の対面は、嵐のように。





「それでね、エドがね――聞いてる!?」
「あぁ、聞いてるよい……」

べろんべろんに酔っ払ったエリザから延々と聞かされるオヤジとの思い出話。昔のオヤジを知れるのは嬉しい。二人が仲良しなのも良いことだ。けど、それは初めて聞かされるから良いのであって、酒盛りのたびに聞かされればさすがに飽きる。

「スーパーで会ったあの人がリサちゃんのお母様なのよね?」

酔っ払いの話はいきなり飛ぶ。突然の問いに頷けば、俺の肩に頭を預けながらエリザはうんうん唸り始めた。

「何だよい」
「リサちゃんが十八で、お母様は四十くらいよね。アンタ、反対されちゃうんじゃない?」
「………」

真剣に何を悩んでるのかと思えば。何度も言ってるのに分かっていないらしい。

「だから、俺らは付き合ってもねぇし、そもそも俺はリサの事をそういう風には――」
「女の直感ナメんじゃないわよクソガキ。ついでに、母親の洞察力もね」

びしっ。額ではなく頬を弾かれた俺は、じわじわと痛みを訴える頬をグイと手のひらで擦り大きな溜息を吐き出した。
エリザの直感と洞察力が正しかったのだと思い知らされるまで、あと数日。