嬉しいことに、ERRORは暇さえあれば俺の所に来てくれた。俺の所にやって来ては「せんせー、だっこして!」と断り難い笑顔で抱っこをねだる。一人だけを贔屓するのは勿論良いことではないが、別に他の子ども達のお願いを断っているわけではないから構うまい。どうやらERRORは俺に抱き上げられた時に見る世界がお気に入りらしい。無駄に背が高かったことに不便ばかり感じていたが、こうして子ども達が喜んでくれるのは嬉しい限りだ。背が高くて良かった。
帰りの時もERRORは当然のように俺の所にやって来る。他の園児も一緒になって絵を描いたり、一人一人抱き上げてグルグル回ってやったり。居残り組の園児達は俺を遊具か何かと勘違いしているらしい。適度に鍛えているから筋肉痛になるわけではないが、疲れというものは誰にでも訪れるもので。
「ストップ! 少し休憩だよい」
「えー!」
「もっとー!」
「せんせー、だっこー!」
アメーバのようにべったり張り付く園児達に笑顔が引き攣る。何とかお絵描きやブロック遊びなどに意識を持っていかせて他の遊びを始めるが、その時もERRORだけは俺の背中にしがみ付いて離れなかった。
「どうした?」
「おんぶ!」
「ERRORは甘えただねい。リサちゃんにもくっついてんのかい?」
揶揄うように言ってやれば、ERRORはさも当然のように頷いた。
「でも、リサちゃんごはんつくるから。そのあとはしゅくだいあるんだって。ERROR、ちゃんととなりでおえかきするんだよ」
「学生だもんなァ。けど、一緒に風呂入ってんだろい?」
「ねるときもいっしょ」
頷いたERRORに苦笑が零れる。どうやら彼女は相当ERRORに甘いらしい。分からないでもないが、べったり張り付いて離れない子になってしまっている事はどうなのだろうか。
「ERRORー、お待たせー!」
「あっ、リサちゃんだ!」
リサちゃんの声が聞こえた途端に俺から離れて駆けていくERROR。まるで子犬のようだと思ったのは心の内に秘めておこう。立ち上がってそちらに向かえば、荷物を地面に放ってERRORを抱き上げる彼女。とんでもなく甘いらしい。いや、甘い。とんでもなく甘い。甘すぎるほどに甘い。
「あ、こんにちはー」
俺に気付いた彼女が人懐こい笑みで頭を下げる。ERRORと並んでいるとよく分かる。姉弟だから当然だが、笑った顔がそっくりだ。
「お疲れさん」
「ERROR、荷物持っておいで」
「うん!」
保育室へ駆け出すERRORを見送り、バッグの砂を払って肩にかけた彼女へと視線を戻す。そう言えば、この間の紅茶の事を聞かなければ。けど、何て言ったら良いんだろうか。紅茶美味かったか?そんな事を聞けば誰だってイエスと答えるに決まっている。かと言って、紅茶は苦手じゃなかったかい?なんて聞いたって大丈夫です、美味しかったですと答えるに決まっている。やはり渡す前に聞いておくべきだった。彼女に選ばせてやるべきだったのだろう。かと言って、やはり先に言ってしまえば遠慮されてしまったに決まっている。
「あの……?」
見つめたまま黙り込んでいた俺に彼女が首を傾げる。
「あー……いや、」
「あ、そうだ。この間はありがとうございました」
「え?」
「紅茶、ご馳走様でした! 美味しかったです!」
笑顔で礼を述べる彼女。好きか嫌いか気になる所だが、きっとどんな風に尋ねても彼女は上手く答えるのだろう。これ以上考えていても仕方ないのかもしれない。
「そう言ってもらえて良かったよい。苦手だったら、って後から気付いたんだが……大丈夫だったかい?」
苦笑混じりに尋ねれば、彼女はやはり笑って頷いた。
「はい、ありがとうございました!」
予想通りの答えに頭を掻いた。まぁ、本人がそう言ってるなら良いだろう。他愛ない話(主にERRORの事だが)をしていれば、リュックを背負ったERRORが戻って来た。上履きから靴へ履き替えてこちらへ駆けてくる。
「おかいもの?」
「うーん、そうだなー……ERRORは何が食べたい?」
「からあげ!」
「唐揚げはこの間食べたからダーメ。うーん、たまには麺にしようかなぁ……お野菜いっぱいいれて焼きそば作ろうか」
「やさいヤダ! ERRORやさいキライ!」
「好き嫌いはいけません!」
野菜と聞いた途端に顔を歪めて叫んだERRORに彼女がぴしゃりと言い放つ。そこら辺はしっかりしているらしい。尚も嫌だ嫌だとごねるERRORに「食べなきゃ大きくなれないんだよ」と言えば、ERRORは今にも泣きそうに顔を歪めて俺の所に駆けてきた。足にしがみ付いて離れないERRORから彼女へ視線を移せば、困ったような顔をした彼女と目が合う。どちらともなく苦笑が零れた。
「おい、ERROR」
「やさいキライだもん! たべない!」
「好き嫌いしてると強くなれねぇぞい」
「……やさいヤダ!」
「でも、今日の昼はちゃんと食べれたんだろい? 姉ちゃんの作った飯はキライか?」
「………すき……でも、やさいはキライ」
「ERRORが全部食べてやらねぇと、姉ちゃん泣いちまうんだよい」
チラリ。ERRORが彼女を見る。咄嗟に顔を両手に埋めて泣き真似をしてみせた彼女に、ERRORは益々泣きそうな顔になって俺の足にしがみ付いた。目に溜めた涙は今にも決壊しそうだ。
「なぁ、ERROR。ERRORが野菜もちゃんと食べれるようになれば、大きくなれるし強くもなれる。姉ちゃんも喜ぶ。けど、食べなかったら大きくなれねぇし強くもなれねぇし、姉ちゃんも泣いたままだぞい」
「………」
「少しずつで良いから、頑張って食べような?」
「………」
たっぷり間を置いて小さく頷いたERRORにホッと安堵の息を漏らす。彼女も同じように顔を緩めてその場にしゃがみ込むと、ERRORの名を呼んで両手を広げた。迷う事なく飛び込んでいったERRORを抱き上げた彼女は、肩にかけたバッグが落ちないように気を付けながら俺に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「大丈夫かい?」
「はい、さようなら。ERROR、先生に挨拶は?」
「……さよーなら」
「はい、さようなら。また明日な。元気に来いよい」
無言で頷いたERRORは彼女にしがみ付き、肩に顔を埋めてしまった。苦笑を零した彼女が再び俺に頭を下げて帰っていく。何度もバッグをかけ直しながらゆっくり歩いていく二人は、まるで親子のように見えた。
「しっかりした姉ちゃんだな」
ポツリと呟いた俺は、数日後、その考えが百八十度変わってしまうという事をまだ知らなかった。
「マ、マルコ先生……!!」
園児の見送りを全て終え、丁度その日の退勤前の事務処理を終えた時に鳴り響いたインターフォン。他の先生達は既に帰っていて、今日は俺が一番最後だったから必然的に俺がそれに応対する事になる。けれどこんな時間に誰かが来るなんて連絡は受けていない。一体誰だろうか、と首を傾げながら職員室を出て玄関に向かえば、閉め切ったガラス戸の向こうに見慣れた姿が見えた。ぼんやりとしか見えないが、おそらく間違いない。
今日のERRORの迎えはERRORの母親が来ていた。会うのは初めてだったが、やはり彼女と似ていると思ったのはつい数時間前のことだ。彼女は一体何の用でここにいるのだろうか。近づけば徐々に彼女の泣きそうな表情が見えて、それに気付いた俺は慌ててドアに駆け寄り戸を開けた。
「どうしたんだい?」
「ごめんなさい!!!」
「は?」
戸を開けて声をかけるなり突然そう叫んだ彼女に素っ頓狂な声が漏れた。腰を九十度で曲げた彼女は勢いよく頭を上げて目いっぱいに涙を溜めて俺に詰め寄ってくる。一体何がどうなっているのか分からない。
「事故で電車が止まっちゃって……っ、携帯代払うの忘れてて連絡出来なくて……っ、ERROR……! ERROR泣いてませんか!?」
「ERROR?」
早口で捲し立てた彼女の言葉を再度頭の中で反芻する。つまり、彼女は母親がERRORを迎えに来た事を知らないようだ。不運が重なり(携帯代の支払いは完全に彼女のミスだけれど)お迎えが遅くなってしまったと思い込んでいるからこそ、こうして今にも泣きそうな顔をしているのだ。
「ERRORならとっくに帰ったぞい」
「………は?」
今度は彼女が素っ頓狂な声を上げる番だった。膜を張った目が大きく見開かれる。
「いつもの時間にお袋さんが迎えに来てたよい。今日は仕事が早く終わったから、って」
「……はああぁぁぁ!? 何それ! 知らない! だって連絡――あ、携帯……」
止まってるんだった。声にならなかった言葉を紡いだ唇から大きな溜息が吐き出される。その場にしゃがみ込んだ彼女に思わず笑ってしまった。きっとここまで必死に走って来たのだろう。乱れたままの呼吸や額に滲む汗に、けれど同情よりも笑いがこみ上げてしまう。しっかり者のお姉さんだと思ってたが、どうやらそういう訳でもないらしい。じとりと恨めしげな視線を送ってくる彼女が可愛らしく見えて仕方なかった。
「お疲れさん、頑張ったな」
しゃがみ込んだままの彼女の頭にポンと手を乗せて、そのまま優しく撫でてやると暑さの所為か羞恥の所為か分からないが耳まで赤く染めた彼女は膝を抱えてしまった。
「立てるかい?」
無言のまま小さく頷いた彼女がゆっくりと立ち上がる。全力失踪してきたのだろう、足が震えている事に気付いてその手を掴めば、驚いた顔が俺を見上げた。
「俺ももう上がるから、送ってやるよい」
「え、わ、悪いですよ!」
「こんな暗いのに一人で帰らせるわけにゃいかねぇっての」
第一、今ここでさよならしたって、その足で帰るのは大変だろう。俺の意図に気付いたのか気付いていないのかは定かではないが、彼女はさして抵抗も見せずに俺に手を引かれたまま園舎へと足を踏み入れた。
初めて触れた小さな手は、少しだけ汗ばんでいた。
「あ、靴脱げよい」
「あ、すみません!」
わざと手を繋いだまま言えば、彼女はハッとして慌てて靴を脱ぎにかかった。片手で器用に靴を脱ぐ彼女はどうやら手を離すという考えを持っていないらしい。いつもERRORと手を繋いでいるからなのだろうが、せかせかと頑張るその姿が回転車で走り回るハムスターを連想させてまた笑いがこみ上げた。
「見てて飽きねェ奴だよい」
「……バカにしてますよね」
唇を尖らせた彼女に、俺は声を上げて笑った。