01


「悪かったな、マルコ。俺ァもう大丈夫だ」

そんな顔色で何言ってんだ。そう言おうとして開きかけた口からは、けれど何の言葉も出てこず、溜息だけが零れ落ちた。
オヤジが入院した。あれだけ好き勝手酒を飲んでいたのだから当然と言えば当然の結果だ。本人は至って気にする風もなく「どうせあと十数年で死ぬんだ。俺ァ俺のやりたいように生きて死ぬ」なんて言っているが、俺たち周りの人間が心配しないわけがない。腕にも鼻にも管をくっつけられて尚、豪快に笑うオヤジに安堵したのは勿論だが、嫌でも目につくその細い管に心がざわつくのもまた事実だ。

「そんな事よりお前ェ、仕事はいいのか?」
「オヤジの事が気になって仕事なんて手に付かねェんだよい」
「グララララ! ハナタレが言うようになったじゃねぇか」

俺の手よりも更に大きなオヤジのそれが俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。もう頭を撫でられるような歳じゃないことは分かってるが、やはり嬉しいものは嬉しい。僅かに顔を綻ばせた俺を見て、オヤジは更に声を上げて笑った。

「心配するな、俺はまだまだくたばらねェよ。心残りがあり過ぎる」

ニヤリと口端を上げたオヤジに苦笑を漏らしたその時、病室の戸が開いて誰かが入って来た。衝立の向こうから現れたのはエリザだった。

「あら、また来てたの? 仕事はいいの? クビになるわよ?」
「今日まで休みをもらってる。明日から入るよい」

俺を見た瞬間に眉を顰めてお小言を言ってくるエリザに肩を竦めてみせれば、僅かばかり表情を柔らかくしたエリザはその手にある大きな花束が生けられた花瓶を窓際に置いた。

「転勤初日から休むなんて印象悪いわよ」
「仕方ねぇだろい、オヤジが倒れて入院しちまったんだ。明日からちゃんと頑張るよい」
「今回の子ども達は何人泣かないでくれるかしらね?」

クスクスと楽しげに笑うエリザに舌を打った。同時に頭の中に浮かぶのは、保育士として、幼稚園教諭として働いてきたこの十数年間だ。初対面で俺を前にして泣かなかった子ども達はどれだけいただろうか。殆どが怖いと言って泣いていた。泣きたいのはこっちだ、と渋い顔をすれば更に泣き喚くものだから、無理に笑顔を作ってみせれば更に泣く始末。無理に笑わないで自然に笑ってあげればいいのよ、なんてお局存在的な先生が教えてくださったが、自分の顔を見て泣き喚く子どもを前にどうやっていつも通りに笑えというのか。そこを教えて欲しい。切実に。
まぁ、何度も顔を合わせれば子ども達も俺を見て脅えることはなくなるし、最終的にはうざったいくらいに懐いてくれるのだけれど。やはり最初から懐いて欲しいと思うものであって。

「サッチはゼロだって言うんだけど、私は、そうね……一人くらいは泣かないでくれる子がいるんじゃないかと思うわ」
「そりゃどうも。俺としては誰も泣かずにいてくれりゃ言うことねぇんだがな」

フンと鼻を鳴らして言ってやれば、再び笑い出すエリザ。見た目では下手すれば俺より若く見えるくせに、実際は俺より遥かに歳上という化け物的外見のこの女は、その食えねぇ性格と美貌でもってオヤジの隣を奪い取った強者だ。何年経っても勝てる気がしねぇのは、エリザが俺を息子のように見ているからというだけではないと思う。

「仕事も良いが、マルコ。お前そろそろ身を固めようとは思わねぇのか」
「何だい、藪から棒に……俺は別に結婚なんて、」
「孫の顔を見れる日を楽しみにしてるんだがな」
「、オヤジ……俺は、」

渋面になった俺に、オヤジはそれ以上言うなとでも言うようにヒラヒラと手を振る。

「楽しみにしてるぜ、マルコ」
「私は女の子が良いわ、一緒に買い物したいもの」
「………」

俺の言いたい事を分かっているくせに、オヤジとエリザは尚も孫の顔を見せろと言ってくる。
俺が何も言えない事も分かっているくせに。





翌日、新しい職場となる幼稚園に向かった。二、三年ほど前に改装工事を行なったらしい幼稚園は、それなりに長い歴史を持ってはいるが何もかもが真新しく見えた。カラフルな園舎、園庭に点在する遊具のペンキも剥げてはいない。ここが、俺の新しい職場だ。
他の先生達に挨拶を済ませ、制服でもある紺のジャージと白いポロシャツを受け取った。ジャージの丈が合わない為に特注で頼む予定だったが、採寸の日にオヤジが倒れてしまった為に未だ出来ていない状態だ。俺が穿くと丈が短いジャージは少しばかり――本当は物凄く――恥ずかしいものではあるが、仕方あるまい。『マルコせんせい』と書かれた名札を胸に付けて、ホールに集められた子ども達と対面した。

前にいた保育園では生後半年の赤ん坊から預かっていたが、幼稚園では三歳からと決まっている。保育園の時とは違い、制服を身に付けた園児達は、それだけで保育園に通う園児達よりしっかりして見えた。
幸いなことに、俺の顔を見て泣く園児はいなかった。年長の園児達の中には、だが。数日前に入園したばかりの年少組の園児達、二年保育として入園した年中組の園児達は、親から離れた事に未だ慣れる事が出来ておらず、サッチ曰く『顔が怖い』俺を見て何人か泣き出した。もう慣れた事だが、やはり辛いものがある。俺はそんなにも怖い顔をしているのか。

「あ、そうだ。マルコ先生」

ホールでの挨拶が終わり、職員室に戻って来た俺を年少組の学年主任が呼び止めた。

「これ、時間割です。最初のクラスはりす組とくま組なんですが……」

差し出された時間割に目を通せば、確かに今日の体操はりす組とくま組とあった。よりによって年少組だ。心配そうに俺を見遣る主任の考えが分かってしまうのは嬉しくない。

「ありがとうございます、頑張ります」

苦笑と共に礼を言えば、僅かに安堵の息を漏らした主任は「頑張ってくださいね」と微笑んで去って行った。再び時間割へと視線を戻す。よりによって年少組。それぞれの担任、副担任もいるから問題は無いだろう。俺とて泣かれるのは慣れている。嬉しくはないが。引継ぎの時に教わった授業内容を頭の中で反芻しながら、お遊戯のBGMとして流すCDを片手に再びホールへと向かうのだった。





初めての授業は大合唱。





「うわあああぁぁん!!」
「ママーーッ!」
「だ、大丈夫だから! ね? ほーら、体操の時間だよー」

挨拶をしようと口を開いた瞬間に泣き出した園児達を必死に宥めるりす組、くま組の担任と副担任。そんなに俺は怖いのか。心の中で舌打ちを零しながら頭を掻き、セットしたCDを再生させた。突然流れ出した曲に驚いた園児達は、けれど再び泣き出す始末。

「――今日から体操教室の先生になりました、マルコだ」

一際大きな声で泣き喚く少年の元へ向かい、抱き上げる。脅えた目でこっちを見る少年の涙を指で拭ってやると、真ん丸な目をパチパチと瞬かせながら俺を見つめてきた。

「名前は?」
「………ERROR
ERRORな。俺ァ、マルコだ。よろしく頼むよい」
「……たのむ、よい?」
「あぁ、よろしくな」
「……よい……?」
「よい」
「……よい」
「よい」
「よい!」

繰り返す内に楽しくなったのか、ビービー泣き喚いていたERRORは満面の笑みで俺の口癖を真似した。子どもの笑った顔ってのは嫌いじゃない。裏表のない笑顔に自然と笑みを零した俺は、ERRORを下ろして園児達を見回した。泣き続けていた園児達も先生の努力によって涙を止めている。

「さ、始めるぞい!」

体操の時間が終わるまでに、全員が笑えるようにしてやろう。