『好きだ』
額を触れ合わせたまま囁いたのは間違いなくマルコ先生で、唇に残る感触もほんの少しのしょっぱさも夢じゃなくて。
先生に好きって言ってもらえたことが嬉しくて仕方がないのに、同じくらい悲しくて仕方なかった。一瞬だけ止まった涙はすぐにまた溢れ出し、ぼんやりと見えていたマルコ先生の顔はまたただの影に戻った。
「や、だっ、のに……」
「………」
「だから……っ、やだ、たのに……」
「………迷惑かい」
耳に届く先生の声は優しかったけどちょっとだけ悲しそうで。そんな声も聞きたくなかった。
何故かは分からないけど、私は先生の範囲内に入ってしまったらしい。何のって、遊びの。いつもあんなに綺麗なヒトと遊んでたから、気分転換に私のような小娘を弄びたい気にでもなったのだろうか。気分転換。今こうして涙を拭ってくれる優しい指も、気が済めばあっさり私を突き放す酷い手に変わるんだろう。
遊びの相手になんてなりたくなかった。そんな風に見て欲しくなかった。意識したくなかった。好きになりたくなかった。神様は意地悪だ。私の願いを何一つ叶えちゃくれない。
「わたし、は、せんせいとなんか……っ、」
遊びたくない。絶対嫌だ。しゃくり上げながら何とかそう告げると、また顎を掴まれた。そこに優しさなんて欠片もなくて、恐怖か悲しみか分からない悲鳴が漏れた。
「俺が、何だって?」
怖くて口が動かない。そもそも顎は掴まれたままだから話せない。余りの恐怖に涙が止まると、さっきみたいに怖い顔の先生がすぐ近くに見えた。怖くて身体が震えても先生は許してくれなかった。
「俺が遊びでこんな事してると思ってんのかよい、あァ!?」
「ひっ、」
ビクリと肩を竦めてギュッと目を瞑る。怖い。嫌だ。見たくない。怖い。逃げたい。こんな先生嫌だ。そう思うのに先生は私を逃がす気もこの話を止める気もさらさら無いらしく「答えろ」なんて冷たい声で命令してくる。頷いたら殺される。殺されなくても殴られる。それなのに頷けるはずがない。きつく目を閉じて震えているだけの私に舌打ちを零した先生は、徐に私を解放すると車の外に出ていった。
静まり返った車内に私の啜り泣きだけが響く。起き上がる事も出来なくて、シートの上で縮こまりながら泣き続ける事しか出来なかった。
先生が戻って来たのは数分後で、扉が開く音に大袈裟に身体が跳ねた。気付かなかったはずがないのに、先生は何も言わずに運転席に腰を下ろしてシートを起こした。
痛いほど苦しい沈黙が続いて、その間も私がしゃくり上げる耳障りな音だけが車内に響いていた。
いつまでこのままなんだろう。早く家に帰りたい。もう先生に会いたくない。そう思っていた私の耳に届いたのは先生の溜息で、そこに怒りは感じられなかったのに恐怖を覚えた身体は勝手にビクリと震えてしまった。
「………悪かった」
小さな小さな謝罪の言葉はそれでも私の耳にハッキリ届いた。縮こめていた頭をこっそり上げて先生を盗み見ると、ハンドルを見つめたままの先生の後ろ姿が見えた。私の位置からじゃ先生の顔は見えなかった。ルームミラーを見てみたけど、やっぱり顔は見えない。
「家まで送るから、悪ィが起きてベルトしてくれるかい」
「………、はい……」
掠れた声で返事をして、のろのろと起き上がる。シートを起こしてベルトを装着すると、先生は未だしゃくり上げる私に悲しげに笑って車のエンジンをつけた。家に帰れる。知らず漏れた安堵の溜息は、気まずい車内を更に嫌な空気にしただけだった。
車は二十分もしないうちに家の前に着いた。ハザードランプを焚いて、こっちを見ないまま先生が「着いたよい」って呟く。あぁ、そう言えばこんな顔なのにどうしよう。お母さん達を驚かせちゃうかもしれない。何があった、なんて聞かれたらどう答えよう。そんな事を考えながらシートベルトを外して、足元に落ちていた荷物を拾う。ドアを開けようと手を伸ばすと先生が何かを言った。反射的に振り返ると、相変わらずこっちを見ないままの先生の横顔が見えた。
「悪かった……もう、話しかけねぇから」
「、」
「ごめんな」
ぽたり。何かが頬を伝って落ちた。
何も言わず、車を下りることもしないままの私を訝しんだのか、先生がこっちを向いた。それから目を見開いて、困ったように眉根を寄せる。
「………何で、泣くんだよい」
その方が良かったんだろい。そう続けた先生は凄く辛そうで、涙を流してないことがおかしく思えるほどだった。どうしてそんな顔するの。だって、遊びなんでしょう?それも作戦なんでしょう?気が向いたからちょっかい出して、気が済んだら棄てるんでしょう?全部全部、嘘なんでしょう?
「、そつき……」
「………」
「先生は、うそつきだ……」
さっきまであんなに泣いてたのに。留まることを知らない涙は次々に溢れてってぽたぽたと落ちた。拭ってみても途切れることはなくて、あぁ、これじゃ家に入れないなんて考えていた。
「俺が、いつ嘘ついたんだよい」
涙を拭う手に先生の手が触れる。さっきとは違って、気遣うような優しい手つきだった。顔を上げると、泣いていないのに私よりも傷付いた顔をした先生が見える。
「だって……っ、だって………」
「俺は、リサに嘘ついたことなんかねぇ」
嘘だ。だって、先生は私を好きだなんて嘘をついたじゃないか。あんなに綺麗な人といたくせに。私の事なんて何ともおもってないくせに。何度も首を振って先生の言葉を否定すると、先生の手にほんの少しだけ力が篭った。
「どうしてそう思うんだい?」
「………だ、て……せんせいは、私のこと、なんか……っ、」
「好きだ」
ブンブン頭を降って否定する。信じられない。そんなはずない。
「リサ」
違う。先生は、私のことなんか何とも思ってない。聞きたくない。
「………何で、信じてくれねぇんだよい……歳が離れてるからか? それとも――」
「だって……っ! 女の人といたじゃないですか! すっごく綺麗な人といたじゃないですか! あ、あんなにっ、あんな……きれいなひと、いるのに……わ、わたし、なんか……」
堪えきれなくなって吐き出したのは事実なのに苦しくて、口にするたびに更に苦しくなっていって。終いには声を上げて泣いてしまった。
私のことなんか好きじゃないくせに。遊びのくせに。あんなに綺麗な人がいるくせに。先生が私のことなんか好きになるわけない。
「す、すきになったって、あそばれる、だけだって……っ、だか、だから、はなれ、た、のに……」
好きになんてなりたくなかったのに。親戚のおじちゃんみたいな存在でいて欲しかったのに。先生が優しくするから。私のことを特別扱いするから。
「わ、わたしは、遊びなんか、やです! 好きになってもらえないなら……っ、ひっく、なにもほしくない……!」
言いたい事は全部言った。先生の言葉なんか聞きたくない。何も聞きたくない。
ドアを開けて外に飛び出そうとすると、突然腕を掴んだ何かに引き寄せられてシートに逆戻りした。先生の腕だった。
「待てよい! もう少し……っ、もう少し、待ってくれ」
「何でよもう全部言ったよ先生だって分かったでしょ私先生が好きなのだからこんなの嫌なの……っ!!」
涙声で叫んだ言葉はちゃんと聞き取れたか分からない。もう何でも良いから早く家に入りたかった。なのに、腕を掴んだままの先生がそれをさせてくれない。
「だから……っ、俺も好きだっつってんじゃねぇか! いい加減信じろよい!」
「じゃああの人は何なのさ! あんな綺麗な人と一緒にいたくせに何が好きだよバカヤロー!!」
「アイツはそんなんじゃねぇ! 大体、何で勝手に俺が遊び人みてぇに思ってんだよい!」
「だってエースさんが言ってたじゃんか! マルコにしては珍しい女だって! いつもは綺麗な女の人侍らせてるってことでしょう!?」
「はべ……っ、」
言葉に詰まった先生。言い返せないってことは事実だってことじゃんか。涙を拭いながら咳き込んだ。怒鳴りすぎて喉が痛い。
心を落ち着かせようとしたのか、深呼吸をした先生が大きな溜息を零して頭を掻いた。
「――確かに、今までは、そうだった」
一言一言、渋々と肯定の言葉を口にした先生。あぁ、やっぱりそうなんじゃん。
「特定の女を作ってなかったことは、認める――けど、もうそういう事はしてねぇし、そいつらの連絡先も知らねぇ。この間の女はオヤジの女で、あー……俺らのお袋、みてぇなモンだ」
「お袋って……だってあんなに若いのに………」
「見えるだけで、実際は俺よりもっと歳上なんだよい」
嘘だ。じとりと先生を見るけど、先生は「本当だ」って譲らない。
「あの日はオヤジの見舞いで、サッチ達は先に俺の家に戻って酒盛り始めてたんだよい。俺はオヤジの容態を聞く為にエリザと病院に残ってて、それから合流したんだ。リサに会った時は丁度サッチから酒買って来いって連絡が入って――」
困ったように頭を掻く先生。
本当に?あの人は先生の恋人じゃないの?先生とそういう関係じゃないの?
「じゃあ……なんで、私なんですか………」
先生の言葉が全部本当だというのなら、どうして?どうして私なの?
綺麗でもない。可愛いわけでもない。スタイルが良いわけでもない。大した取り柄もない。先生から見ればただのガキだ。
「…………ERROR」
「え?」
たっぷり間を置いた先生がポツリと呟いたのは、ERRORの名前。何でERRORが出てくるの?わけ分かんない。
「ERRORがいつも話してくれてたんだよい。優しい『リサちゃん』のこと」
「、」
「新学期始まった頃、丁度オヤジが入院しちまって早退ばっかで、他の先生からERRORのことを聞いた。アイツは他の子ども達と違って両親とも仕事で迎えに来れねぇから、いつも姉貴が迎えに来るって。だから、ERRORには気を遣って接してやってくれって」
「………」
「実際ERRORと話してみたらアイツは『リサちゃん』のことばっかで、優しいだとか、ご飯が美味しいだとか……『リサちゃん』が大好きなんだってすぐに分かった。オヤジの容態が落ち着いて、俺も安心して仕事が出来るようになって……漸く『リサちゃん』に会った」
眉尻を下げて笑った先生に心臓が跳ねた。
前にも聞いたことがあったけど、ERRORがそんなに私のことばっかり話してたなんて知らなかった。少しだけ恥ずかしい。
「未成年だってのは知ってたが、実際見ると本当にただの嬢ちゃんで……弟の面倒ばっかで遊ぶ時間もなくて、不満抱えてんのかと思ってたらスゲェ幸せそうにERRORの頭撫でてて……『リサちゃん』がERRORを大好きだってのもすぐに分かった」
だって大好きだもん。遊ぶ時間なんてないけど、遊びたいなって思うけど、それでもERRORを嫌いだって思ったことは一度もない。
「ERRORが話す『リサちゃん』に興味を持った。弟の面倒見て、休みの日はバイトして、でもそれを親の所為にしてなくて……しっかり者の姉ちゃんなのかと思えば、携帯代払い忘れたって酷ェ顔で幼稚園乗り込んできて」
「わ、忘れてください!」
「家まで送るって言えば車ン中でも挙動不審で。面白くなって飯に誘ってみたら腹鳴らして」
「も、もういいです!」
「アイツらにも『リサちゃん』を会わせたくなってあの店に連れてったんだよい。揶揄ったらムキになって、なのにすぐ笑って……俺の家族が作った飯を、美味いって言ってくれた事が嬉しかった――幸せだって笑った顔が、好きだと思った」
照れ臭そうに笑いながら、目だけは真剣な様子の先生に見つめられる。顔が熱い。先生がそんな事を思ってたなんて、全然知らなかった。違う、知ろうとしてなかったんだ。先生の優しさを疑って、先生の言葉を疑って、逃げて、拒絶して、傷付けた。
「、ごめん、なさい……わたし、ひどいこと、いっぱい………」
「俺が聞きたいのは謝罪じゃねぇ。なぁ、リサ……もう一回、言ってくれよい」
「………、すき、です」
初めての告白に、
貴方はとても嬉しそうに笑ってくれました。
「ふはっ、真っ赤だよい」
「……見ないでください」
「どうして。もっと見せてくれよい」
「や、やだ! 恥ずかしいから見ないでください!」
伸びてくる先生の手を叩き落として、両手で顔を隠す。顔が熱い。恥ずかしい。死ねる。
「リサ」
すぐ近くで聞こえた優しい声。指の隙間からそっと覗き見ると、先生の優しい笑顔が見えた。温かくて、ちょっとだけ可愛い笑顔。恥ずかしさを覚えながら手を下ろすと、近付いてくる先生の顔。
「好きだよい」
囁かれた言葉に頬が緩んでいくのを感じる。良いんだ。信じても良いんだ。この言葉を、この人を。
「わたしも、」
好きです。そう続くはずだった言葉は、先生の唇に呑み込まれた。