09


午後はアスレチックで沢山身体を動かし、遠足は終わった。
沢山の友達と思う存分遊んだことでERRORはすっかり満足したようで、帰りのバスの中でもまだ興奮気味の様子だった。けど、それも家に帰るまでのことで、家に着いた途端に目を擦りだして、五分後にはリビングのソファで眠ってしまった。
すやすやと眠るERRORにブランケットをかけて、弁当箱と水筒を洗う。どうしても思い出してしまうのはあの後ろ姿で、無視されたのを思い出してじわじわと涙が滲む。ERRORは眠っていて、両親は仕事で外出中。今なら泣いても誰にもバレない。ぼろぼろと零れ落ちた涙が蛇口から出る水に混じって流れていくのを、ただぼんやりと見ていた。

洗い物を終えても涙は止まらない。ソファはERRORが使っているから裏に回ってフローリングの床にべたりと座り込んだ。ソファの背に寄りかかり引き寄せたティッシュで鼻をかむとオヤジ臭い声が漏れた。溜息を一つ、二つ。三度目の溜息を吐き出したその時、バッグの中で携帯が着信を告げた。誰だろう、お母さんだろうか。のろのろと立ち上がりバッグの方へ向かい、携帯を漁る。知らない番号が表示されていた。

「………誰だろ、」

こういうのは無視するに限る。知らない番号からの電話なんて怪しいじゃないか。自慢じゃないが、今まで知らない番号からかかってきて出たことは一度もない。ずっと振動していた携帯はやがてピタリと止まった。長い電話だった。そう言えば伝言メモ設定してないや。設定しておこう。知らない番号の相手が留守電を入れてくれれば大助かりだ。何で今まで気付かなかったのだろう。
伝言メモを設定し終え、再びバッグに戻そうとした時に再び震える携帯。さっきと同じ番号だった。

「……知ってる人なのかも」

同じクラスの誰かだろうか。アドレスだけしか登録してない人なんていたっけ?いや、でも赤外線で交換したし……。そんな事を考えてる間に振動が止まる。さっきよりも早かった。伝言メモが作動したらしい。携帯を開いてみると、どうやら電話の相手は伝言を入れているようだ。すごい、いきなり役に立った。やがて完全に電話が切れると、伝言メモを確認するべく携帯を操作する。
さてさて、電話の主は誰だろうか。携帯を耳に当てて再生ボタンを押すと伝言が再生を始める。

『………俺、だよい』
「!!?」

思わず耳から離した携帯をガン見する。え、うそ、何で?何で番号知ってるの?い、いやいや!違うよ!オレオレ詐欺かもしれないじゃん!声だってもしかしたら違う人だったかもしれないし!あのわけの分からない(でもちょっとだけ可愛い)語尾だって、オッサン達の間で人気なのかもしれないじゃん!!
携帯をガン見している間に伝言が再生終了を告げる。画面に現れる『消去しますか?』の文字。わ、待って!私まだ用件聞いてない!慌てて『いいえ』を選択しようと携帯を握り締めたその時、テーブルの端に置いていたバッグが床に落ちた。突然の物音に驚いて思わず手にあった携帯を強く握る。

「び、くりした……」

動揺しすぎだ。落ち着け。落ち着くんだ。携帯を握り締めたまま深呼吸を二回ほど繰り返し、よし、と気合を入れて携帯へ視線を戻す。

「……あれ?」

あれ、いつの間にボタン押したんだっけ?待受画面に戻ってる。しょうがない、もう一度伝言メモを開こう。携帯を操作して伝言メモを探し当て、また「あれ?」と呟く。

『伝言メモはありません』

神様、私は貴方を殴り飛ばしたいです。いや、神様よりもほんの一分前の自分を殴り飛ばしたい。いや、それよりもバッグをテーブルの端に置いた五分ほど前の自分を――、

「ばかやろおおおぉぉぉぉっ………!!!!」

ERRORが寝ているから、あくまでも囁き声で。

あれから三十分。電話はもう鳴らない。先生が連絡してきた理由も分からない。いや、着信履歴に番号が残ってるんだから、かけ直せば良いだけの話だ。いきなり伝言メモに切り替わったんだから、先生だって私が着信に気付いている事くらい知ってるだろう。けど、私の手は一向に動かない。携帯を握りしめ、着信履歴に残る数字の羅列をジッと見つめているだけだ。これ、先生の携帯の番号なんだよなぁ・・何で電話してきたんだろう。無視して行っちゃったくせに。
何度目か分からない溜息を零したその時、ERRORの唸り声が聞こえた。あ、起きたかも。

ERROR、起きたの?」
「……うん、」

まだ寝ぼけているらしいERRORが目を擦りながら頷く。可愛い。急いでバッグからデジカメを取り出して写真に収めると、完全に目を覚ましたらしいERRORが「おしっこ」と呟く。まだフラフラしてるからトイレまで連れてってやると、一人でパンツを脱いで用を足した。幼稚園に通うようになって、トイレも完全にマスターしたらしい。子どもの成長は早いなぁ、なんて年寄りじみたことを考えてる間に手を洗ったERRORは、私にしがみ付いて足に顔を押し付けてきた。

「どした?」
「……ねむい」
「いっぱい遊んだもんね。でも、そろそろ起きないと夜寝れなくなっちゃうよ?」

私の足に顔を押し付けたままブンブンと顔を振るERROR。ちょっとぐずりモードらしい。抱き上げてリビングに戻り、ソファに座る。膝の上で私にしがみ付いていたERRORは、そのまま二度目の昼寝へと突入してしまった。しかし、子どもって体温高いなぁ。そう言えば、私も朝早かったんだ。途端に襲ってきた睡魔に勝てずに、私も背凭れに身体を預けて眠ってしまった。





「いい加減起きろっつーの」

ガツン。鈍い痛みで目を覚ました。呆れた顔のお母さんが見える。あれ?

「あれ……もう帰って来たの?」
「何言ってんの。もう七時だから」
「……は!?」

嘘!?そんなに寝てたの!?時計を見れば確かに七時を過ぎていて、レースだけにしていたカーテンはきっちり閉められていた。

ERRORは!?」
「とっくに起きてる。ったくもう、一人にしたら危ないでしょうが」
「ごめん……一緒に寝てたんだけど………」

二度寝だったからすぐに起きてしまったのだろう。起こさずにいてくれたのか、起こしたけど私が起きなかったのか。おもちゃで遊ぶERRORに「ホントにごめん!」と謝れば「いーよ!」と赦してくれた。しかも言い方が可愛かった。キュンとした。

「で、アンタに客よ」
「は、客?」
「約束してたんでしょ? さっさと出てあげなさいよ、ずっと外で待ってるわよ」

何言ってるんだこの人は。首を傾げる私に舌打ちをしたお母さんは「とっとと行け!」と廊下に続く戸へと私を押しやった。閉まっていたドアに顔をぶつけた。本当に母親か。

ERRORー、ママと一緒にお風呂入ろっかー」
「うん!」
「差が酷すぎない!?」

本当に母親か!そう叫んだ私を面倒臭そうな顔で見たお母さんは「いいからとっとと出てあげなさいよ」と追い払うように手を振った。弁当の仕返しか。

「だから、誰が来てんの? 別に誰とも約束なんてしてないってば」
「だって電話きたんでしょ?」

電話。その言葉に玄関に向かっていた身体が止まる。まさか。まさか……?

「ちょっと、アンタその頭で出る気?」

そんなお母さんの声は聞こえていなかった。慌てて家の外に出ると、飛び込んでくる黒のセダン。私が出て来たことに気付いたんだろう、運転席のドアが開いて出て来た人は見間違えようがない。

「まる、こ、せんせ……?」

呆然と突っ立ってる私に先生は一瞬目を丸くして、けどすぐに笑ってこっちにやって来た。どうして。どうして。

「髪」
「、え?」
「すごい事になってるよい」

呆然と先生を見つめながら頭に触れて我に返る。

「な、何これ!」

ソファで寝ていた時に何度か身じろいだんだろう。一つに結んでいた髪はぐっしゃぐしゃになっていた。慌てて髪を解いて手櫛で梳いていく。最悪だ。

「す、すみません! 寝ちゃってて……っ、」
「早起きして弁当作ったからだろい? 悪かったな、疲れてんのに」
「あ、あの……えと、先生、どうして………?」

何とか髪を整えて尋ねれば、先生は「伝言聞かなかったのかい?」って笑う。少しだけ悲しげに見えたそれに、昼間の出来事を思い出して慌てて首を振った。

「で、伝言聞こうとしたんですっ! でも流したら先生の声でビックリして携帯見てる間に再生終わっちゃってっ、もう一回再生しようとしたのにバッグが床に落ちてその時に間違って消去しちゃったみたいで……っ、その………ごめんなさい……聞いてません……」

神様、落ち着いて説明するという誰でも持ってるはずのスキルを私に与えてください。とにかく、私がヘマしたという事だけは分かってもらえたらしい。先生は「お疲れさん」って笑った。

「七時に迎えに行くから、無理だったら折り返してくれって伝言入れといたんだよい」
「へ?」
「今から時間あるかい? ――話がしてェんだ」
「、」

話?何の?話すことなんてないじゃないか。まさか、先生は私の気持ちに気付いてるんだろうか。それで、迷惑だから止めてくれって?そんなの聞きたくない。

「頼む」

そんな顔しないで欲しい。断れないじゃないか。

「……はい、」

頷いた私に、ホッとした(ように見えた)先生が車に向かう。

「――あ、財布と携帯持ってきます」

先生が頷いたのを確認して急いで家に入る。お風呂にいるお母さんに「ちょっと出てくる」と告げれば「私の子なら逃げないで立ち向かいなさい」って言われた。バッグを持って家を出て、ちゃんと玄関の鍵を閉めてから助手席に座る。シートベルトを装着すると先生はすぐに車を発進させた。

「あの……何処に行くんですか?」
「決めてない」
「へ?」

え、決めてないの?話するの?運転したまま?

「俺のこと避けてるだろい」

運転したままするらしいです。と言うか、やっぱり気付かれてたらしい。まぁ、当然と言えば当然だよね。答えない私に先生は「俺、何か気に障るような事したかい?」って続ける。気に障ることなんてされてない。だから左右に首を触れば、チラリと私を横目で見た先生は車を走らせたまま更に続けた。

「ずっと考えてたけど、やっぱり分かんねェんだよい。この間の飯の時かい?」
「そんなんじゃ……ない、です………ご飯は、楽しかったし……嬉しかったです」
「じゃあ、どうして避けるんだ?」

ほんの少しだけ。先生の声に苛立ちのようなものが見えて身体が震えた。怒っている。私の所為で、先生が怒ってる。

「そ、れは……」

何て言えば良いのか分からない。何て言えば良いの?『意識しちゃったからです』?『好きになりたくないから』?言えるわけない。
答えない私に、痺れを切らしたのか先生が舌打ちを零す。また身体が震えた。怖い。帰りたい。やっぱり断れば良かった。膝に置いたバッグを掴む手が震えていることに気付いたのか、先生は頭を掻きながら苛立ちの篭った息を吐き出した。泣きたくなってきた。

突然、先生が車を停めた。運転の仕方は分からないから何をしているか分からないけど、サイドブレーキを上げたから暫く運転する気はないんだろう。顔を上げて窓の外を見れば、昼間遠足で来た公園の駐車場だった。シートベルトを外した先生が身を乗り出してきて、助手席の脇のレバーを引っ張る。次の瞬間、ガクンとシートが後ろに倒れた。寄りかかっていた私の身体も一緒に倒れると、自分のシートも倒した先生がまた身を乗り出してきて私のいるシートに腕をついた。いつもより遥かに近い位置にある顔は明らかに怒っていて、緊張よりも恐怖が勝った。優しく細まる目は、今は鋭く私を睨み付けている。怖い。声が出ない。

「言えよ」
「、」
「俺を避けてた理由。言え」

いつもと違う口調。いつもと違う雰囲気。鋭い視線も、その表情も、何もかも。私の知ってる『マルコ先生』じゃなかった。この人は、誰?知らない。こんな人、知らない。先生の右手が私の頬に触れる。恐怖に身を竦めた私に、それでも先生は追求を止めてはくれない。頬を滑った手が顎を掴んだかと思うと、グイと引き寄せられて更に近い距離で見つめられた。怖い。怖い。怖い。

「言えっつってんだ」
「っ、ぁ……」

声が出ない。怖い。滲んだ涙のおかげで先生の顔がぼやけたけど、恐怖は消えない。怖い。

「散々人を振り回しといて、自分はクラスの男とよろしくやってたわけかい」

鼻で嗤った先生の顔が見えない。そもそも、何を言ってるのか分からない。分かんない。もう分かんない。やだ。嫌だ。帰りたい。先生といたくない。
ボロボロと涙が溢れてきて、完全に先生が見えなくなった。それでも、まだ近くにいることが気配で分かる。

「あの野郎のこともそうやって泣き落としたのかい」

あの野郎って誰だよ知らないよ分かんないよやだよもうやだ!!先生を押し返そうと手を伸ばしたけどビクともしなくて、漸く出た声でやだって言えば腕を掴まれた。痛いくらい強く握られた手は振り払うことなんか出来なくて、こんな時なのに煩くなる心臓が憎たらしかった。

「や、だ……っ、やだぁ……」
「………」
「はなしてっ、はな、してよぉ………」

先生は何も言わない。分かんない。何も分かんない。大体、先生は何でこんなに怒ってるの?私が避けたから?あからさまだったから?それだけでこんなに怒ってるの?どうして?

「なん、なんでっ、せんせ、が、おこ、怒る、ですか!?」
「………」
「私が……っ、さけ、てたって、べ、べつに」
「何とも思わねぇって?」

頷いたら手首を掴む腕にさらに力が篭った。痛いって声を上げたけど、放しても力を緩めてもくれなかった。ひっく、ひっくとしゃくり上げる私に、顎を掴んでいた先生の手がまた頬へと滑った。こめかみに温かく柔らかい何かが触れる。先生の気配がものすごく近くに感じた。

「堪えるに、決まってんだろうが」

絞り出したような声に、ギュッと瞑っていた目を開ける。やっぱり先生の顔はぼやけていてよく見えなかった。

「お前に避けられるのは、堪える」
「……マル――」

マルコ先生。そう言おうとした唇が何かで塞がれた。温かくて、柔らかくて、ちょっとだけ震えている。
それが先生の唇だと気付いたのは、先生が唇を離した後だった。





初めてのキスは、涙の味でした。





こめかみに触れた何かは先生の唇だったらしい。目を見開いて呆然と先生を見つめる私に、先生は何故か辛そうな顔で額を合わせてきた。

「好きだ」

囁いた先生の声は、頭の中にいやに大きく響いた。