お母さんがあんな事を言ったからだ。
「ありがとうございました、さようならー」
いつもなら少しだけ先生と話してから帰るのに、今日はそれが出来ない。ERRORの荷物を受け取って、すぐに背を向けて歩き出す。
「……おう、気を付けて帰れよい」
マルコ先生の訝しげな視線がいつまでも背中に突き刺さってる気がして怖かった。
あれから三日間。私はマルコ先生を避けてる。しかも分かりやすいほどあからさまに。もっと上手くやれれば良いんだけど、私はそういう事に長けていないらしい。不器用すぎる自分に泣きたくなりながら、今日も目を合わせる事もしないまま早々と帰ってきてしまった。
「リサちゃん、マルコせんせーきらい?」
「へ?」
スーパーに寄って買い物をした帰り道、ERRORがそんな事を言い出した。
「……どうして?」
「マルコせんせー、リサちゃんにきらわれちゃったってゆってた。きらい?」
「別に嫌いってわけじゃ……」
「どうしておはなししないの? けんかしたの?」
「ううん、喧嘩してないよ。嫌いでもない」
「じゃあ、すき?」
「………どうかな、分かんないや」
親戚のおじちゃんみたいに思ってたはずなのに、何でだろう。たった一度そういう風に意識しただけでこのザマだ。けど、仕方ない事なんだと自分に言い聞かせるしかない。マルコ先生を好きになっちゃダメだ。歳も離れてるし、そもそも向こうは私のことをそういう風に見てない。ご飯を食べた夜だってあんなに反対してたじゃないか。もし仮に見てたとしても、どうせ遊ばれるだけだ。泣くだけだって分かってて、好きになんてなりたくない。近寄りたくない。
納得したのかしてないのか分からないERRORと共に会計を済ませて家へと向かう。いつもは苦に思わない夕飯作りが、こんなに億劫だったのは初めてだった。
次の日も、その次の日も。
ありがとうございました。気を付けて。さようなら。短い言葉だけをやり取りして先生と別れる。先生の顔なんて見れないから、俯いたままだった。
一緒にご飯を食べたあの夜は、あんなに楽しかったのに。幼稚園で先生と話すの、あんなに楽しかったのに。今はすごく辛い。
遠足の五日前、専門学校の研修合宿に参加した。一泊二日の合宿の間、今まで話した事のなかったクラスの人達や先生達と沢山話した。
当然ERRORのお迎えなんか出来るはずもなく、マルコ先生に会わずに済むのにホッとするどころかちょっとだけ寂しくて、そんな自分に泣きたくなった。
「ね、ね、例の人とはどうなったの?」
旅行と言えば就寝前の恋バナ。ワクワクした様子で尋ねてくる友達に、けれど私は肩を竦めて首を振ることしか出来なかった。
「何も」
「えー、何で? 進展ないの!?」
「ご飯行ったのに!?」
「だから、一緒に食べただけなんだってば。向こうだって何とも思ってないし、私だって……」
「そうなの? 先生の話する時のリサすごく嬉しそうだったじゃん? だから好きなんだと思ってた」
「………好きじゃないよ」
好きになったって良いことない。だったら好きになりたくない。お母さんだって反対してたし、丁度いいじゃんか。
けど、そっか……周りには私が先生を好きな風に映ってたのか……。
「向こうもリサの事好きなんじゃないの? だって普通、一緒にご飯行かないでしょ? 教え子のお姉ちゃんとなんて」
「だからそれは――」
「帰る時にお腹鳴ったんでしょ。そういう場合、普通なら『じゃあ早く帰ろう』みたいになるんじゃないの? 何とも思ってない子相手なら」
「………」
「もうちょっと一緒にいたいって思ってくれたから、ご飯連れてってくれたんだと思うけどなァ」
そんな事言わないで欲しい。信じたくなっちゃうじゃないか。
枕を抱きしめて黙り込んだ私の肩を叩きながら「恋せよ乙女!」なんてわけの分からない事を自信満々に言った友達に、ほんのちょっとだけ感謝した。
合宿が終わり、地元に戻って来た。
そう言えば、土曜日のシフトの変わりは見つかったんだろうか。見つかったら連絡くださいって言ったのにまだ来てない。変わってくれる人にお礼言いたかったのに。
取り出した携帯を開いてみると、やっぱり連絡は入ってない。この時間帯だとちょっと混んでるだろうから、電話するより直接行った方が良いだろう。
行き先を自宅からバイト先のコンビニへと変更して向かう。十数分後に後悔する事になるんだけれど。
「おはようございまーす」
「あれ、リサちゃん? どうしたの?」
コンビニに入れば、レジに立っていたパートのおばちゃんが目を丸くして話しかけてきた。合宿帰りで、土曜日のシフトが気になって来たのだと言えば、さっき漸く決まったって店長が言ってたわよって教えてくれた。
バックヤードに入って行けば、シフト表と睨めっこしていた店長がこっちを向いて「やぁ」と手を挙げる。
「すみません、土曜日のシフト決まりました?」
「うん、さっき決まって電話しようと思ったんだよ」
手渡されたシフト表を受け取って、代わりに入ってくれる人の名前を確認。よし、あとでお礼の電話入れておこう。
「あぁ、研修合宿だったんだっけ?」
「そうなんです。帰るトコだったんですけど、気になっちゃって……すみません」
「まぁ、しょうがないよ。弟さん小さいもんね。遠足に誰もいないんじゃ可哀想だし」
理解のある店長で嬉しい限りだ。ありがとうございますとお礼を言って、帰ろうと表へ戻る。ERRORにジュースでも買っていってやろうかな、なんて思った時だった。
「いらっしゃいませー」
レジに立つおばちゃんの声に思わず自分も「いらっしゃいませ」って言いそうになって慌てて口を抑える。職業病だ。慣れって怖い。誰にも気づかれなくて良かった。胸を撫で下ろしてパックのジュースを眺めれば、ふと目に入ったアップルティー。
「………美味しくなかったんだよなぁ」
あの日は思ってたより美味しいと思ったはずなのに。次の日に買ったら全く美味しくなかった。やっぱり紅茶は苦手だ。
アップルティーに伸びかけた手で隣のいちごオレを掴む。やっぱりこっちの方が好きだ。ERRORのお土産もいちごオレにしよう。二つ手に取ってレジへと向かおうとしたその時だった。
「まだ飲むのかよい」
「あら、全然足りないわよ」
聞き慣れた声と独特の語尾。背筋が凍るのを感じた。そっと振り返れば、大量の缶ビールやら缶チューハイやらをカゴに放り込んでいるマルコ先生。隣にはとんでもなく綺麗でスタイルの良いお姉さんが立っていた。ズキン。胸が痛い。何でだろう、苦しい。それと同時に、あぁやっぱりな、なんて思った。
マルコ先生は私のことなんて何とも思ってない。ご飯をご馳走してくれたのだって気紛れだ。だって、あんなに綺麗な恋人がいる。恋人じゃなくたって、あんなに綺麗なヒトが傍にいるなら、わざわざ私みたいなちんちくりんに食指を動かされるわけがない。
「……はは、」
乾いた笑いを漏らしてレジへ向かう。先生に気付かれる前に店を出よう。レジのおばちゃんは私の顔を見て一瞬だけ目を丸くしたけど、何も聞かずにいちごオレをスキャンして袋に詰めてくれた。代金を渡して急いで店を出ようとすると「リサちゃん!」って呼び止められる。
「これ、さっき出た廃棄のパンなの。賞味期限ギリギリだから今日中に食べてね」
「わ、ありがとうございます!」
元気づけようとしてくれたんだろう。おばちゃんの気遣いにちょっとだけ泣きそうになりながら(情緒不安定だ)お礼を言って頭を下げると、カツンと聞こえた足音。
「――リサ?」
「、」
身体が震える。あぁ、気付かれたくなんてなかったのに。頭を下げた状態で静かに深呼吸をして顔を上げ振り返る。初めて店に来た時と同じ、大量の酒をカゴに入れたマルコ先生が立っていた。あの時と違うのは、女性が好みそうな缶チューハイがカゴに入っている事と、隣に立つ綺麗なヒト。大きな目。バッチリメイク。綺麗な白い肌。細い身体に大きな胸。ミニスカートから覗く細くて長い脚は女の私でも見蕩れてしまうくらい綺麗だった。
「、こんにちは」
「あら、マルコの知り合いなの?」
「あぁ。……合宿から帰って来たのかい」
マルコ――。女の人の綺麗な声が先生の名を呼ぶ。『先生』なんてつける必要もない。『さん』もいらない。二人は対等で、お互いに特別だから。あぁ、駄目だ。何で。私、こんな奴じゃなかった。なんでよ。こんなの嫌なのに。泣きそうになる理由が分からない。好きなんかじゃない。好きになりたくないから離れたのに。何でこんなに苦しいの。
「……リサ?」
「――失礼します。――お疲れ様でした、これ、ありがとうございます」
先生に頭を下げてからおばちゃんを振り返り、もう一度パンのお礼を言って店を出た。
「リサ!」
背後からかけられた声は、聞こえなかった。私は何も聞いてない。
重い荷物を抱えたまま、家まで全力疾走した。
初めての感情に、押し潰されそうでした。
「リサちゃん? ポンポンいたいの?」
玄関の戸を開けると、丁度買い物に行こうとしていたらしいお母さんとERRORが立っていた。泣きそうな顔で問いかけるERRORに無理やり笑って首を振る。伸びてきたお母さんの手が私の頬に触れた。
「………だから言ったのに」
呆れたような声はそれでも優しくて、荷物を放り捨てた私はお母さんに縋り付いて声を上げて泣いた。