また今日が終わる。真っ暗な部屋の中でリサはぼんやりと戸を眺めていた。
誰かが来ることを期待したわけではない。ただ、寝返りを打った時に最初に見えたのが戸だっただけだ。
頭の中はイゾウの言葉がぐるぐる回っている。
”よく考えろ”
考えたよ。呟いてリサは何もかも拒絶するかのように目を閉じる。
考えた。考えた。殴られて牢に入れられた時からずっと、ただただ考えてる。
考えて、考えて、考えて。それでも答えは出てこない。
赦すとか赦さないとか、そういう問題でもないことも分かっている。
腹が立った。殴り返してやりたいと思った。ふざけんなと思った。
けれどそれ以上に、ただただ悲しかった。信じてもらえなかった事が、ただ悲しかった。
誰かの所為にしてみても、だからどうしたと思うだけ。結局は同じだ。ただ、悲しいと思うだけ。
信じてもらえなかった。兄弟だと信じていた彼らの中でリサはそういう人間だった。
”いくら自分がリィシャみてぇになれねぇからって……!!”
彼らの中で、リサは「リィシャに嫉妬した女」だったらしい。あの時の言葉を掻き集めればつまりはそういうことなのだろう。
嫉妬。リサが、リィシャに。リィシャの、どこに?分からない。
可愛いところ?背が低いところ?男に媚び売るところ?分からない。どれも羨ましいとは思わない。確かに女じゃない、デカ女と呼ばれて苛立ちはしたが、それは彼らが揶揄したからだ。揶揄われたことに苛立ちを覚えただけで、別に女にしては背が高い自分を悲観したことなどない。精々、ハルタに「見下ろすな」と理不尽に八つ当たりされることくらいしか不便も感じないのだから。
けれど彼らの中ではリサは『そう』だった。それは彼らがリサという妹を正確に把握していなかったからだろう。
一緒に冒険をして、酒を酌み交わして、踊って――ハルタに女を捨ててるとまで言われるような姿を晒した妹をすら、彼らは他の女に嫉妬するような小さい女と認識していたのか。あぁ、それが悲しい。
イゾウの言葉がぐるぐる頭の中を回っている。
仕方ない。だって彼らにはリサじゃなくてリィシャが家族だったから。長年付き合ってきたリサよりもリィシャを可愛い妹と認識したから。だから、そう。仕方ないのだ。
仕方ないことが悲しくて堪らなくて。会うのが怖くて。
彼らが反省していることも分かってて。彼らが謝りたいと思ってくれてることも分かってて。けれど、まだ悲しくて。怖くて。
逃げているだけの自分は確かに海賊船にはお荷物でしかない。イゾウの言葉は尤もだ。
けれど、それも仕方のないことだ。
リサにとって彼らは兄弟で、家族で。四六時中べったりくっついていたわけではない。食事の席がたまたま一緒だったり、たまたま宴会の席で隣だったり、歌い踊る時にたまたま肩を組んだり――それでもリサには大切な家族だった。
そんな家族からの仕打ちに傷付かないわけがないではないか。傷付かなかったとしたら、それこそ家族でも何でもない。イゾウが彼らの行動を仕方ないと言うのなら、リサの現状だって仕方のないことなのだ。
「、あたま、いたい」
頭を掻き毟った時にぐちゃぐちゃになった包帯はそのままで。あぁ、そう言えばもうずっとお風呂に入ってない。ベタつく髪にそんなことを考えながらリサは枕に顔を埋めた。包帯の乱れなど、もうどうだっていい。
いたい。いたい。ずっと、どこかがいたい。
殴られた箇所なのか、もっと違う部分なのかは分からない。分からないほど全部が痛い。痛みを逃がすように大きく深呼吸をして、けれど痛みはちっとも消えてはくれない。心臓の辺りが痛いのは、そこに心があるからだろうか。
不意に飛び込むノックの音。あぁ、また誰かがやって来た。またマルコか、イゾウか。ハルタかもしれないし別の誰かかもしれない。返事をするのも億劫で無視を決め込む。それで何も言わず去っていくならば、それはリサに手をあげた誰かなのだろう。謝罪の言葉なんて薄っぺらいものが何の役に立つというのだ。
「入ります」
聞こえた声にリサは目を開けた。聞き間違いではない。女の――リィシャの声だった。
戸が開いて部屋の中に廊下の明かりが射し込む。枕に顔を押し付けたままのリサにはそれを確認することは出来ないのだけれど。
「リサさん、リィシャです」
不思議なことにリィシャの声は怯えていなかった。
リサが殴って気絶させたというのに、彼女の声には怯えも戸惑いも見当たらない。初めて声をかけてきた時は微かに震えてすらいたのに。
「出てけ」
顔を上げないままに吐き捨てた声は自分でも驚くほど冷めていた。
「いいえ、出て行きません」
話をしましょう。そう言ってリィシャがベッドの端に腰を落とした。
勝手に座るな。近寄るな。ざわりと心が拒絶反応を起こすのに従って飛び起きたリサはリィシャからめいっぱい距離を取ってベッドの端へ移る。そんな自分の行動に驚いた。まるで自分が怯えているみたいではないか。
「あと包帯も変えさせてください」
「いらない」
「あぁ、でもその前にやっぱりお風呂入りましょう。ずっと入ってないんでしょう?」
「余計なお世話だ」
吐き捨てるリサなどお構いなしに立ち上がったリィシャがリサに近づいて来る。来るな。そう言っても聞きやしない。わけが分からない。怯えていたくせに。嫌いだって言ったではないか。何で近付いて来るんだよ。伸びてきた手を叩き落とすとリィシャのが微かに息を詰めた。それにハッとして。ほんのりと赤みを帯びてしまっただろう細く白い手をバツが悪い思いで見る。
「……ご、めん」
何とか搾り出した謝罪にリィシャから溜息が漏れる。
「リサさんて意外に繊細なんですね」
全然そうは見えないのに。あまりにもさらりと吐き出された言葉に一瞬時が止まって。
「……は?」
何コイツもしかして馬鹿にされたの?え、私もしかして馬鹿にされたの?
え?あれ?ぽかんとリィシャを見上げながらリサは言葉を失くした。理解が追いつかない。頭が働かない。そんなリサにリィシャは呆れたような視線を向け、腰に手を当ててずいと顔を寄せてきた。
「お風呂」
「、」
「行きますよ。ほら、立って。今すぐ!」
「、」
言葉が出てこない。頭が働かない。突然の大きな声にびくりと身体を震わせたリサは反射的に立ち上がった。そしてまたあれ?と内心で首を傾げる。何で素直に従ってるんだ私は。微かに機能を取り戻した頭が怒りで染まっていくのを感じながら口を開こうとすれば、まるでそれを見計らったかのようにリィシャがリサに言う。
「リサさん、臭いです」
だからお風呂入ってください。そう言われてしまえばリサにはもう言えることなどない。髪はベタついて気持ち悪いし、頭が痒くなってきたようにも感じる。
「わたしに、命令すんな」
何とかそれだけを吐き捨てて風呂の支度をするリサに、リィシャは満足気に微笑んでいた。
「………何でアンタまで入ってくんの」
おかしい。これはどういうことだ。素っ裸でやって来たリィシャを前にリサはただただ困惑する。
「洗ってあげます」
「いらない!」
「駄目です。怪我をしてるんですから、丁寧に洗わないと」
「誰の所為だよ」
思わずそう返してリサはハッとした。違う。リィシャの所為ではない。彼らがリィシャの為に怒ったことは事実だけれど、リィシャ自身は何の関係もない。気まずさを覚えて顔を背ければ、そんなリサの考えを読んだかのようにリィシャは「座ってください」とだけ言った。後ろめたさから素直にそれに従えば、リィシャはシャワーを手にして優しくリサの頭を洗い始める。
「考えたんですけど、やっぱりよく分からないんですよね」
そう切り出したリィシャにリサは心の内で同調する。分からない。考えても何も分からない。
「リサさん、私のどこが嫌いなんですか?」
「……何それ、わざわざ言って欲しいわけ?」
自分が嫌われる理由を?鼻で笑うリサにリィシャは「だって」と拗ねたような声を出す。
「私、別に悪いこと何もしてないです。それなのに嫌いとか言われたら悲しいに決まってるじゃないですか。家族なんだから」
付け足された言葉にぐっと言葉を詰めて、リサは思う。
あぁ、そうか。彼らにされていたことを、自分もリィシャにしてしまったのかと。
「……声が嫌い」
「身も蓋もありませんね」
苦笑するリィシャにリサは下唇を突き出した。きっとリィシャの顔は引き攣っていることだろう。シャワーをかけられている所為で見えないけれど。手につけたシャンプーで優しく頭を洗い始めたリィシャに、顔が見えないのを良いことにリサは続けた。
「何であんな気持ち悪い声出すの」
「媚び売ってるみたいで気持ち悪い」
「アンタ、チビなんだからオヤジに届くわけないじゃん」
「全部あいつらに気に入られる為の計算にしか見えなかった」
気持ち悪い。ただただ気持ち悪いと思った。ぞわりと寒気すら覚えた。
「はっきり言われるとさすがにキツイですね」
「言えって言ったでしょ」
傷ついたような声に気付かないフリをしてリサは鼻を鳴らす。流しますよ。そう言ってリィシャの手がシャンプーを流し始めた。何だよ。思ってリサは目を瞑る。たった今心ない言葉で傷付けられたくせに。傷を気遣って頭を洗う手には怒りも何もない。
「怒んないの」
「正直ムカつきました。だって、それを言うならリサさんだって偉そうだし、ガサツだし、一週間もお風呂入らなくて汚いし」
「うるせぇ黙れムカつく」
「隊長たちから可愛がられててずるいです。私は一日でも早く船に馴染みたくて必死に頑張ってたのに、結局隊長たちは皆リサさんの味方だったもの」
どういう意味だ。分からずにリサは「はぁ?何だそれ」と言葉を返す。
「悪く見られるより良く見られたいと思うのは普通でしょう? 可愛いって言われたら嬉しいし、優しくされたら凄く嬉しいです。認めてもらえたんだって思うから」
認めてもらいたかったから。一日でも早く。そんなリィシャなりの方法だったと言う。それはリサにとっては気持ち悪いだけでしかなかったけれど、それでもリィシャにとっては違う。よく見られたくて自分を作って何が悪い。そう言う。
「だから離れたじゃんか。私はちゃんと離れた。アンタを嫌だと思っても我慢した」
「そんなのリサさんの事情です。私は全員と仲良くなりたかった。リサさんとだって仲良くなりたかった。だから話しかけたんです。それが悪かったなんて言われたって困ります。そうでしょう?」
答えずにリサは口を噤む。分かってる。それが普通だ。仲良くなりたいから話しかける――それはあまりにも当たり前で。リサの考えなど知らないリィシャにはそれしか選択肢がなかった。だってリィシャは知らなかったから。だって、リサと話したことがなかったから。それがリィシャの事情だ。
「嫌われてるって分かってて近付こうと思う? 普通なら距離置こうって思うじゃん」
「思いませんでした。だって、私はそんなに弱い女じゃありませんから」
「、」
「私は、リサさんが思うほど弱くないんですよ」
一瞬の動揺を見逃さずにリィシャが畳み掛けるように言葉を重ねる。弱くない。それはリサのリィシャに対する認識を否定する言葉だ。
「はい、頭は終わりです」
髪の水気を軽く絞ったリィシャの細くて白い手がリサの両頬を包み込んだ。何すんだと口を開く間もなく強い力で顔を上げさせられる。ぐきり。首が痛んだ。
「っ、た……」
「リサさんが私を嫌おうと自由ですけど、それならちゃんと『私』を見て答えを出して。何も知らないままで決め付けて嫌おうとしないで――家族でしょう?」
首の痛みに顔を歪めるリサなどお構いなしにリィシャが言う。自分を見ろ、と。色眼鏡で見るなと。至近距離に見えたリィシャの顔はあの寒気のする笑顔などではなかった。まっすぐにリサを見つめるその目の奥には確固たる信念が見え隠れしている。
弱い、とは思わなかった。
「……首が、痛い」
そう呟くと不満気に顔を歪めたリィシャはそれでも手を離してくれた。その目から逃げるように顔を背けてリサは顔を顰める。
何だよ、何なんだよ。気持ち悪い。身体の内側が、物凄く気持ち悪い。それを外に出したくて、どうにかしたくて。
「ごめん」
無意識に溢れ出たその言葉が、内側に溜まった何かを全て引っ張りだしてくれたように思えた。
痛みはもう、消えていた。